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資材と人材の確保、契約、担当省庁との交渉、経理、現地の慣習の理解や地元とのコミュニケーション。
事務所をゼロからスタートするというのは、さまざまな分野での膨大な量の仕事と格闘することだ。
アレックスに限らず、派遣スタッフは夜になると疲弊しきっていた。
それでもふとした隙に、アナの声が聞きたい、触れたいと強く思うが、こちらの昼間は向こうの夜中。
国際電話は事務所からが一番かけやすいのだが、仕事中だし、しかも彼女を夜中に電話でたたき起こすわけにもいかない。
会いたくてたまらない気持ちをやり過ごし、押し殺しているうちに、目の前の忙しさに流されていく日々だった。
アナの誕生日も、彼女の “今日、何の日か知っている?” と言うメールに “ごめん!” と返事が来たのは3日後だった。
地方に行っていたのだ。
でもアナにはわかるはずもなかった。
(私の誕生日まで、忘れてたの?)
怒ろうかとも思ったが、今の尋常でない忙しさの彼にそうしても、後味がさらに悪くなるだけの気がした。
アレックスにとっては新しい環境で必死だったが、アナにとっては前と同じ風景で、彼だけが欠けている日々。
遠距離恋愛は、たぶん、置いていかれるほうが少しだけもっと辛い。
***
その年のクリスマス、アレックスは故郷に戻ってこなかった。
今でこそ中国は都市部ではクリスマスという時期を楽しむようになったが、当時は大半の人にとり縁のない祭日だった。
仕事も通常通りだ。
時差12時間の向こう側で、アナはきらびやかな飾りに彩られたショーウィンドウを眺める。
そばをいくつものショッピングバックを抱えた男性が、女性の手を引いて通り過ぎていった。
アレックスと同じくらいの年の男性。
反対側の同じく赤や緑のライトが点滅するおしゃれなレストランの窓際には、微笑みあうカップル。
アナは目をつぶって静かに息を吐くと、歩き出した。
(彼に期待してはいけないんだ)
いつからかアナは自分に暗示をかけるようになった。
(こんなこと辛くない)
彼との思い出が多い高校にも、もちろん公園にも近づかなくなった。
(私は一人でも大丈夫)
そうやって心の周りに壁を築き始めた。
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