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「そう、婚約者。キミよりずっと賢くて、品があって、素晴らしいご令嬢。いっちゃんと同い年だしねえ」
ヒナはコクリと息を呑んだ。
――――ああ、分かった。今、はっきりと分かった。引き離される。引き離されてしまう。徹さんは本気で引き離そうとしている。……樹くんのもとに戻らなければ。早く、早く。
もの凄い速さで霞んでゆく意識の中、ヒナは樹の名を叫んだ。
――――身体が動かない。徹さんから逃げられない。樹くん、樹くん!
「だからヒナちゃん」
手にした紙コップが、指からするりと離れ落ちる。
がしゃっと水しぶきを上げて、紙コップが足元に転がった。
舞台の緞帳が下ろされるように、だんだん視界が狭まってゆく。
塞がってしまった喉からは、なんの音も出てこない。
「……ぃ……っ……」
けれど、耳だけは、鋭敏なほどよく聞こえて。
「――――消えて?」
高い背を屈めながら耳元で囁かれた、吐息のように小さくて甘い声。
何故か悲しげな、けれど、鋭利なナイフに似た容赦ない言葉が、頭の中に木霊する。
ガクリとくずおれるヒナを抱き留めた徹が、ささめくように何かを呟く。
それを最後に、ヒナの視界は徹が纏う空気と同じく、冷たい闇に染まり、そして、沈んでいった。
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