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総一郎は、徹が寝返ったことなどすでに知っている。その理由も掴んでいた。
徹から目を離すな。セブ島に着いた翌日、総一郎から掛かってきた電話で、父はそう言った。
「気をつけろ」ではない。「目を離すな」と言ったのだ。
それは、徹を心配し、心を砕いていたから出た言葉なのだろうと樹は思う。
父・総一郎もまた、自分と同じく、徹を完全に切り離して考えることが出来なかったのだ。
それは、甘さ故の感情。
拳に握った掌に爪が食い込んでゆく。
「……いっちゃん。ヒナちゃんは、もう……ダメだよ」
小さく呟かれた徹の断罪の声に、樹の肩が大きく跳ねた。
握った拳に食い込んだ爪が皮膚を破り、赤い滴が手首を伝う。
「……ダメってなんだよ。さすがに殺しはしない。だろ? だったら、いい」
昏く囁かれた言葉は、樹の本心だった。
そのセリフに、信じられないものを見るように、徹の双眸が見開かれる。
「生きてたらいい。例え、徹が言ったみたいに、無垢なヒナが穢されてしまったとしても。ボクにとって、それは大きな問題じゃない」
生きて、自分の元に戻って来さえすれば、それでいい。
――――けれど、もう。ヒナの傍には。
表情が消えた人形のような顔で、冷たく鋭利な眼差しで、樹は徹を射た。
樹から立ち上る怒気を、徹は見た気がした。
それは、酷く悲しく、酷薄なほど無慈悲なもので。
「みくびるな。ボクは忘れない。……必ず報復してやる」
樹が浮かべる表情。
それは、子供が浮かべるものではすでになく。
「……いっちゃん。総兄に伝えて。終息までの期限は『椿の華が暁に落ちるまで』。それで、総兄は分かってくれるから」
――――ごめんね、いっちゃん。
謝罪の言葉を最後に、徹は樹の前から姿を消した。
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