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店で交わした時のような身体の火照りがあるわけではない。
アスティスへの確かな気持ちがあるわけではない。
「あぅ、……痛い、痛いで…す……。
抜いて……あ、あっ」
解放された口から出る呻き。
何の準備もなく襲い掛かってきたものにびくりと身体を震わせる。
緋色の瞳に涙が滲んでくる。
「遊んでいるのは……君の方だろう?
俺の気持ちを踏みにじったのも君だ。
例え記憶を失って、何人もの他の男と寝てしまっていたとしても、俺は変わることなく君を愛するだろう。
だが、何があっても君には、君だけには俺の気持ちを疑って欲しくはなかった……!」
「!! アスティスさ――」
胸が痛かった。
何も返答できなかった。
腕が離れ、身体が離れ――ティルアは押し付けられていた壁に凭れるまま床に沈んだ。
涙がはらはらと落ちてくる。
口許を両手で覆う。
「……婚約指輪を売ってしまっていたね。
街中でショーケースに飾られたあの指輪を見た時の、俺の気持ち……分かる?」
ティルアは答えることができず、ただ嗚咽だけが口から漏れる。
「…………大人げないって自分でも分かっている。
君は記憶を失ってしまっている。
だから仕方がなかったんだと言い聞かせて俺は――!」
言葉を詰まらせて、アスティスは壁を握り拳で叩いた。
拳の皮膚が切れ、赤い筋が流れていく。
「…………っ、ごめん。
ドレス……置き去りにしてしまった。
取りに行ってくる……だから、ここにいて。
逃げないで……」
ティルアの方に顔を向けずに発された言葉を残して、彼は雑踏へと消えていった。
「うっ、うっ……うっ、うっ、ひっく……う、ううっ、う、うわぁああああ……っ!」
ティルアは顔を突っ伏して泣いた。
悲しいのは、自分の悲しみではない。
彼の心の悲しみを思うと、胸が張り裂けそうだった。
そして、自分はこんなにも愛してくれている彼のことを忘れてしまっている。
それどころか、彼に酷いことを言ってしまった。
心の中には、彼ではない別の男性がいる。
――自分が許せなかった。
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