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青い空がどこまでも続いていく。
その中に飛び込んでいきたいという誘惑は人ならだれもが抱いたことのある夢だろう。
そしていくらかの愚かな人間はそれに抗いきれずに跳んでしまう。
翼のない人間は重力に従って落ちていくしかないのに。
「……幻(ゆめ)に堕ちていく愚者(にんげん)、か………」
フェンスに背を預けた龍樹は小さく呟いた。
吹き上げる風が龍樹の髪と衣服を揺らしていく。
それにあわせて物干し台を占領する白いシーツが翻った。
綾が義母の見舞いに行っている間、龍樹はここで時間をつぶしていることが多い。
雨の日はさすがにこんな所にいられないが、綾が晴れ女のかそれともちゃんと日を選んでいるのか、見舞いの日が雨になることはほとんどない。
「もうそろそろ、か……?」
ベルトに繋いだ懐中時計をポケットから取り出して眺める。
燻銀に細やかに力強い細工が施されたこの時計は、もともと綾の実父の持ち物だった。
綾の実父は龍樹から見れば義父に当たる。
幼心にも大きな人だったということは覚えている。
だが思い出の中にしかいない人の面影は時という風にさらされていく中で少しずつぼやけていく。
忘れたくないと強く思っているのに、時というのはとても残酷だ。
龍樹がこの十八年の人生の中で忘れたくないと思った人物は、片手の指で足りる人数しかいないのに。
龍樹は小さく溜め息をつくと丁寧に時計を戻した。
その瞬間、屋上に続く扉がきしみながら開いた。その向こうに見慣れた栗色のツインテールが揺れている。
「綾」
綾の位置からでも見えないかもしれないと龍樹は声を上げる。
その声に顔を上げた綾は一瞬泣きそうな表情を見せた。
綾はそのまま顔を伏せて龍樹の胸の中に飛び込んでくる。
「っ……おい、苦しいだろう……」
が、と文句を言おうとした龍樹は、視線を下げながら言葉を止めた。
そのまま、無言で視線を上げる。
「……おふくろさん、どうだった?」
しばらくの空白の後、龍樹が口にした言葉は当たり障りのないものだった。
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