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どうして。
ずっと思っているのに、綾はその一言を口に出すことができない。
口に出した瞬間に、全てが崩れていくのが怖いから。
「…………綾ちゃん?」
その時、小さな声が綾を呼んだ。
はっと顔を上げる。
その先に久しぶりに見る義母の瞳があった。
「お母さん……」
「来てくれてたのね。ごめんね。
お母さん、なかなか起きていられなくて」
細くて、弱い声。
記憶の中にある声にけっして生気にあふれるものはなかったが、それに比べても今の義母の声は一段と弱くなっている。
だがそれでも、柔らかさと優しさに満ちた声は美しかった。
「ううん。いいの。私が勝手に顔を見に来てるんだもん。
……気分は? どう? どこか痛かったり、しない?」
その弱さが、刻々と減っていく義母の時間を示しているような気がした。
伸ばされた細い手をそっと取った綾は、その冷たさにわずかに瞳を震わせる。
そんな綾の心中を知っているのかいないのか、義母は優しく笑って首を横へ振った。
「お母さんね、幸せな夢を見ていたのよ、綾ちゃん」
そして唐突に、義母は言葉を紡ぐ。
「蒼い海と青い空がどこまでも続いていく中をね、お母さん、ずっと飛んでいくのよ。
……綺麗だったなぁ………」
寝たきりになって久しい義母は、この数年海など見たこともないはずだ。
空も、この病室の小さな窓から見える景色では小さすぎる。
ずっと飛んでいけるほどの空なんて、どれだけ大きかったのだろうか。
「あんな景色を、もう一度、見てみたいわ……」
義母が望むことはみんなちっぽけでささやかな願いだけで。
大好きな義母の願いは全部叶えてあげたいのに、結局何一つできない自分が、綾は悔しかった。
せめて義母の前では、義母が安心してくれるように笑っていたい。
その一心で綾は視線を上げて微笑しようとする。
だがそこで綾は義母の表情がいつもと違うことに気付いた。
「……でもお母さん、なんだか悲しそうな顔してる……」
義母はいつものように笑っている。
そういえば、記憶の中にいる義母はいつも、その美しい顔に優しい微笑みを湛えていた。
だが今、その笑みの中にはわずかな悲しみが宿っていた。
幸せな夢、と義母は言ったのに。
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