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第四部
1.
目を開けると、日はとうに、随分高くに昇っていた。ぼくは工場の床に段ボールを敷いただけの寝床の上で体を起こすと、大きく伸びをし、首や肩を何度か回し、それから、ぼくの左側へと視線を向けた。遮光塗料を塗りたくった水槽は、遠目には何が入っているのか分からないが、何か大きなものが沈んでいるぐらいはこの距離からでも見てとれる。
ぼくは水槽に近付くと爪先立ちになって中を覗き込み、うわあと言った。人間のぐずぐずになったものが硫酸の中に沈んでいた。人間というよりも、火災にあった人体模型を慌てて水に突っ込んだ、の方がまだ信憑性があるような気がした。
ぼくは人体模型の成れの果てみたいになった品野をしばらくの間眺めた後、何か食べに行こうと思った。太陽の位置からすると昼はとっくに過ぎている。まだそこまで空腹というわけではないが、ここから駅まで歩いていき、食事が出来る場所に辿り着く頃には多分腹は減っている。こんなものを見た後に食欲が湧くかは疑問だが、こんなものを眺めているよりは「健全な人間らしい」気がした。
それに、マンガや小説の世界では「よくこの状況で食えるな」という言葉が出てくるが、死体を見て食欲がなくなるなんて、あったとしても一時の事だ。死体を見たら永久に食欲が湧かなくなるなんて事はないだろうし、死体を見たら永久に何か食べずに生きていける、というわけでもないだろう。
もっとも、ぼくの場合はそこに「人を殺したくせに」「詐欺で稼いだ金で」、よく食事なんて出来るな、などと言われる事になるのだろうが、人を殺した事や詐欺に対して罪悪感を抱くのは心、空腹を訴えるのは胃袋だ。いくら人を殺した事に罪悪感を抱いたって、心で腹が減る事までも止められるはずがないではないか。それが出来ると言うのなら、人間は心持ち一つで食事など不要に出来るはずだ。
ぼくはビニール袋から新しい服を取り出すと、今着ている服を脱ぎ、着替えて、さっきまで着ていた服を畳んで段ボールの上へと置いた。多分もう着ないだろう服をいちいち畳む必要があるかは疑問だったが、そこら辺に脱ぎ散らかしていくようなだらしない真似は嫌だった。
ぼくは歩きながらふと空を見上げ、青いなあと、実に当たり前の事を思っていた。目が痛い程に眩しくもなければ、くすんだガラスをはめたように汚くもない。
ただ普通に青いだけの空だった。
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