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「ごめんな。おれはシーブック・アノーとしてセシリー・フェアチャイルドを裏切らなければならないッッ……」
そう言い残して傍らの寝息を乱さぬよう、布団を出た。
洒落たステンドグラスの窓から差し込む月光が右腕を照らす。木星大戦の時失った右腕は鋼の義手になっていた。
(あの時失ったのは何も右手だけじゃないさ……)
沢山の仲間を失った。母艦『マザー・バンガード』も失った。シーブック・アノーは『キンケドゥ・ナウ』、セシリー・フェアチャイルドは『ベラ・ロナ』という名をそれぞれ失った。
(それでも、そう迄してでも地球は守らなければならなかったんだ。)
そして、守り切った。木星帝国総統クラックス・ドゥガチから。キンケドゥ・ナウとしての最後の戦争はシーブック・アノーとしての二度目の生存でもあった。
「だが、地球は今、危ないッッ!」
それだけ解れば十分だった。彼がもう一度クロスボーンガンダムに乗る理由たるには。
ハンガーに掛けてある彼のエプロンの隣に寄り添う様に掛かっているのは彼女のエプロンだ。彼は予め用意していた二つ折りの紙を取り出し、彼女のエプロンの左胸部分にあるポケットに忍ばせようとする。
その時ふと、馴染みのある香りがし、目を細める。それは、彼女のエプロンからだった。
(生憎、義手はパン生地を捏ねるのには不向きでな。だがお前を護る事が出来るなら、それ以外の何一つ、義手には必要無い!)
本来、パンを包む筈である紙を二つ折りにしたそれは、音も立てずポケットに滑りこむ。紙がポケットから落ちない事を確認してから、香ばしいパンの香りを振り払う様にベッドルームを出る。
あの紙は彼女、セシリー・フェアチャイルドへの手紙だった。恐らく『禁忌を冒す名』でこう書かれている筈だ。
――心配するな。シーブック・アノーは必ず生きてお前の元へ帰って来る。だから心配するな。キンケドゥ・ナウより
カジュアルな格好に着替え終え、ずっしりと重い本革のジャケットを羽織る。左肩にある髑髏のワッペンは彼のお気に入りだ。
そっと玄関の戸を押し、彼女を起こさぬよう静かに自宅を出る。
夜闇を仰げば、今、正に一筋の流星が数十度にもなろうかという長い光の尾を引いて、満月の横を彼方の空に裂いていったところだった。
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