コメントのちから

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吾妻栄子さんのコメントへの反応 2014/6/6 おはようございます。 なるほど。おっしゃる通りかも知れません。 ちょっと気になって、『文芸的な…』をチェックしてみました。 『文芸的な、余りに文芸的な』は、芥川龍之介が雑誌 「改造」 1927年4月~8月号に連載した文学評論。 同時代の文豪谷崎潤一郎との「小説の筋の芸術性」をめぐる論争が特に注目される。 さて、その中身ですが 第1章 「話らしい話のない小説」~ 第40章「文芸上の極北」まで、結構な長文です。 谷崎との論争部分もありますが、全体としては、より広範に古今東西の作家と作品を例証に引き、文学を論じています。 取り上げられた作家・作品数を数えてはいませんが、ほぼ全世界の作家を論じています。 以下は冒頭の記述です。 僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐな い。従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はな い。 第一、僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」 と云ふ意味は単に「物語」と云 ふ意味ではない) 若し厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何なる小説も成り立たないであらう。 従つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。 (中略) 谷崎潤一郎は人も知る通り、奇抜な 「話」の上に立った多数の小説の作者である。その又奇抜な「話」の上に立った同氏の小説の何篇かは、恐らくは百代の後にも残るであらう。しかし、 それは必ずしも「話」の奇抜であるかどうかに生命を託してゐるのではない。 更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無さへも、かう云ふ問題には没交渉である。 僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」 らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかし、 かう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。 この冒頭の記述は、個人的には、やや冗漫と感じます。無駄な箇所がある。もっと簡潔に述べて良さそうに……なんて、知った風な事を言ってはいけませんね。芥川龍之介ファンから怒られそうです。 それにしても、これほど多岐に亘って具体例を挙げ、 言及するとは驚きです。やはり、天才作家ならではの視点と才能だと思います。 コメントを、ありがとうございました。m(__)m
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