第一章 夏のいいわけ

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 病室の戸を開くと、病院独特の匂いが私の鼻を撫ぜる。初めの頃はこの匂いを不快に感じることも多かったが、さすがに数日も病院の中に居続ければだいぶ慣れてきた。  ――ふん。ざまぁみろ。  意味もなく勝った気になった私は、ちょっとスッとした気持ちで身体をトイレの方へと傾けた。しかし、自分の病室の前から踏み出そうとした足が、病院の灰色と水色が混じったような淡い色の廊下に縫いとめられる。  隣の病室の前に一人の女の子が立っていた。  綺麗な黒髪を胸ほどまで伸ばしたその子は、ジッと隣の病室のネームプレートを見ている。女の子は私の存在に気が付くと、なぜか逃げるようにその場から立ち去り……、看護婦さんに呼び止められ怒られてた。看護婦さんに一礼をして、すぐ近くにあった角に、女の子の体が消えていく。 「変な子」  小さく呟き、私は縫いとめられていた足を動かす。しかし、その脚は三歩進んだところで、再び廊下に縫い止められてしまった。女の子と同じように、私は隣の病室の前で立ち止まり、部屋の主の名が描かれたプレートに目を向ける。 「舞之原……。陣(じん)、かな?」  昨日の夜、屋上に突然現れたお邪魔虫の名は陣というらしい。  たっぷり三十秒ほどそのネームプレートを睨んだ後、私は「ふんっ」と鼻を鳴らし、少し早足ぎみにトイレへ向けて歩き始めた。意味もなく苛立ちが込み上げてくる。それが一応は私の命の恩人なのだから素直に怒れず、タチが悪いことこの上ない。  トイレに着くと、ちょうど男性用の方から一人の男の子が出てきた。 「あっ……」  私と目が合い、男の子の口から小さな戸惑いが漏れる。怪訝に眉を寄せた私が彼を舞之原だと気付いたのは、それから少し経ってからだ。 「お、おはよう」 「もうお昼だけどね」  たどたどしく手を上げる舞之原に私は素っ気なく答えながら、昨日はよく見られなかった彼の姿を観察した。  身長は私より少し高いくらいで、やっぱり男子としてはそんなに高くない。耳が隠れない程度に伸ばされた髪は男の子なのにサラサラしていて、とても清潔感がある。全体的に線が細く、肌も焼けていない。顔つきは柔らかくて、なんだか典型的な文学少年という印象だ。 「昨日はどうも」  皮肉を込めて私は言った。舞之原が申し訳なさそうに肩を竦め、視線を私から外す。  頼りない奴。  こんな奴に引きとめられたのかと思うと、さらに腹が立った。
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