第一章 夏のいいわけ

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「大丈夫。次はちゃんとやるから」  持ち上げた手で冷たいフェンスを掴み、私は背中を金網に預けながら立ちあがる。額から流れ落ちた汗が私の顎から滴り、屋上のヘリに大粒の黒い太陽を描いた。  心臓の高鳴りはまだ収まらない。 「四季川さんっ。生きてっ!」  なのに、舞之原の声は驚くほど鮮明に私の耳に届いた。  その声に、スッと私の身体から余分な力が抜ける。  フェンスに寄りかかって何とか立っていた身体は、今は二本の足がちゃんと支えていた。 「死ぬのなんて明日でもできるじゃないか。だから、今日は死なないで。今日は生きてっ!」  屋上の大気が震えるような大声で、舞之原が言葉を私の背に叩きつける。その彼の言葉という弾丸を受け、私は思わず笑ってしまった。  だって、そうでしょ。  死ぬのなんて明日でもできる? それがさっきまで「生きろ」って叫んでいた人の言うこと?  胸をくすぐる笑いの衝動。それでも私は、かたくなに表情を冷やして言った。 「言ったでしょ。私はあと一年で死んじゃうの。私には生きる目的がないの」  自分でも底冷えするほど冷たい声。でも、舞之原は引かなかった。 「一年も生きなくていいから。とにかく、今日は生きてっ!」 「今日を生きたらどうなるの?」 「今日を生きたら……、生きたら明日、僕が四季川さんを驚かせてあげる。死ぬことなんか忘れるような、物凄いことしてあげる」  たぶん、何も考えずに舞之原が叫ぶ。  漠然とした、なんの確証もない提案だ。受けるに値しない。  私は再び闇の深淵を覗いた。ゴクッと、無意識に喉が鳴る。  私の背を睨み続ける舞之原は何も言わない。意識を追い越して、唇が勝手に動き言葉を紡ぐ。 「……なにしてくれるの?」 「え?」 「今日生きたら、何してくれるの?」  まるで子供が親にお願いするように、私は無垢な心で舞之原に訊ねる。  舞之原は、震える声で答えた。
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