第1章

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 私は誰なのであろう?名前を知っていたところでそれが答えにはならない。  社会的な地位や仕事だろうか。それとも自分の夢や目標が自分というものを表現するのに何か役にたっているのだろうか。  堂々巡りすぎて危険だ。私は急用を思いついたように飛び上がり玄関に向かった。サンダルをつっかけ引き戸をバタバタと開けると歩き出した。  考えてみれば、鏡の中の世界を自分のいる世界と同じように扱いすぎではないだろうか? 実体は無いし、左右も逆だ。鏡の中はもっと変わっていていい。それが自然なはずだ。  思考を撒き散らしながら当ても無く歩いていると喧騒が聞こえてきた。いつの間にか駅の近くにある商店街まで来ていたらしい。子供たちの喚声や主婦の話し声に吸い寄せられるように私は商店街の中へ入っていった。 ふらふらと歩いていると、種々雑多な建物が混じって立っている一画が目に入る。雑居ビル、トタン屋根の家なのか倉庫なのかはっきりしないもの、普通の一軒家など。飾り気のない雑居ビルの隅に薄暗く幅の狭い登り階段がついていて、木製の看板が掲げられている。看板の輪郭は真四角ではなく、所々に木の自然な切り口が残っていた。近づいてよく見ると『相談屋』と書いてある。あまり特徴の感じられない、平凡な字面ではあったが、墨を使って太い筆で書いてあるようだ。  私はコンクリート製の急な階段を登って二階へと上がった。  建物の反対側に向かって薄暗い廊下が伸びている。どうもこじんまりとした事務所のようなものが並んでいるようだった。廊下の中ほどにある扉に相談屋と書いてあるのが見える。  脆そうな磨りガラスの部分を避けて、扉の枠を二度ノックした。返事はなく、中で人の 動く気配もない。磨りガラス越しに中を見ているとはいえ、室内は暗すぎた。誰も居ないのかもしれない。試しにノブをひねって押してみる。少しドアと床が引っかかる感触があったが、扉は奥に押し開けられた。  正面に重厚感のある大振りの机があり、その前には相談をしにきた者が座るのであろう肘掛けの付いた椅子があった。相談屋という商売、そのままの図式を目の当たりして、自分はしばらくの間、立ちつくしていた。  我に返り、部屋の中に入ると、右に開いたドアで視線が遮られていた所に、黒いソファが置かれていて、その上に男が、仰向けに寝ていた。
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