第1章

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 耳は音を聞いているはずなのに意識の中に入ってこない。皮膚感覚もない。視覚だけが妙に強調されているようだ。平衡感覚も残っているようだが、現実感がない。歩いて前に進むと後ろに自分の大半が乖離して残っていて、それを置いてけぼりにするまいと引き摺っている。どうやら自分はこの世界で不安定な存在になってしまったようだ。 赤、白、青で彩られた円柱がぐるぐると回っているのが目にとまる。永遠に続く螺旋階段を三つの色達が駆け上がっていくようだ。しばらく眺めてから、私は扉を開けて理容店の中へ足を踏み入れた。  店主が先客の髪をパチパチと鋏で切りながら、にこやかに「いらっしゃい」と声をかけてきた。  私が散髪用のイスにどっかと座ると店主が前掛けを広げながら聞いてきた。  「今日はどういたしましょう」  どうやらここは自分の馴染みの店だったようだ。「いつもどおりにしてくれ」とだけ答えて私は目を閉じた。  前掛けが顔の前を撫でていきながらも私の思索は間断することなく続いていく。  散髪が終わり、店主が髭剃りの準備に入った気配を感じ、私は目を開いた。  鏡の中の私はてるてる坊主が首を吊っているような格好で首を九十度右へ曲げた状態で存在していた。  しかし、これはおかしい。幻覚としか思えない。  もし自分が首を曲げているのなら鏡の中の私を見たときには顔が正面に同じ角度で見えているはずである。  突然、体が仰け反る形で後ろに倒れた。どうやら店主がペダルを踏んでイスを倒したらしい。  鏡の様に磨かれた剃刀が私の鼻先を左右に飛び交う。そこに映る自分の顔を目で追いながら私の意識は心の奥の方へ沈降していくようだった。  後ろから理髪店の店主が何かわめきながら追いかけてきていたが、私は構わず商店街の人ごみの中へ入っていった。早足で歩いていると風景がぐらぐらと揺れながら加速していく。頭の中まで揺らぎが伝わってきて、思わず傍らにあった電柱に手をついて立ち止まった。そばにある魚屋の軒先では私が立っていて、買い物カゴを手に提げた私と何やら立ち話をしている。その店先では私が路面に這いつくばるようにしながら蝋石で手足のバランスの悪い動物らしきものを描いていた。
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