第1章

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新造 一  麹町にある出版社に小説の原稿を届けた後、私は電車に乗り込んだ。  締め切りぎりぎりで書き上げる悪い癖がついていることは自覚している。反省するのはいつものことだが、直る気配はまったくない。直接編集部へ原稿を届けるという手間をかけていることに腹を立てている自分がいる。 途中、二回ほど乗り換えて西武線に乗った。最寄駅である野方の駅で降りて南の方へ向かって進んでいくと住宅街がある。クネクネと狭く細い路地が不規則に絡み合っている道路を、私は夕闇に追い立てられるように歩いていた。  吐く息は白くなかったが、まだ今年の寒さに慣れていない体は頼りなく縮こまっていた。 一戸建てが密集して立ち並び、道の両側を埋め尽くしている住宅街の中は閑散としていて猫一匹飛び出してくることもない。  丁字路の角を右に曲がり、自宅近くの裏路地に入った時、向こうからゆっくりと、動いているかどうか怪しいぐらいのろのろと進んでくる人影に私は気づいた。  薄闇の中、目を凝らすとその人影は老婆であった。素足に茶色いサンダル、それと汚れた短いワンピースを着ていて、白髪の混じった髪は乾いて波うってボサボサとしていた。浅黒い肌とどこか南米を彷彿とさせるような顔立ちが目立つ。  なぜか老婆は天井部分に幌のついたピンク色の古ぼけた乳母車を押していて、車輪が錆びているせいかキーキーと高い音を発していた。  車が入ることのできないぐらい細い路地であるうえ、住宅が密集して建っているせいで、 老婆のほうへ近づくにつれ、私はまわりの建物に上から押しつぶされるような感覚をおぼえた。  人がすれ違うことがやっとの道幅しかない。 仕方なく私は体を道に沿って並んでいる年代物の黒ずんだ板塀を背にして硬直し、老婆が横を通り過ぎるのを待つことになった。  乳母車の上の部分は平らでその上には申し訳程度であるが、透明なビニールの覗き窓がつけられている。そこから中の様子が見えるはずであったが汚れていて中の様子はぼんやりとしている。小窓の中に視線を向けた時、目のようなものがパチりと瞬いたような気がして、怯んだ私は少し仰け反った。  のろのろと進んでいた老婆は板塀に張り付いている私の横でピタリと乳母車を止め、顔を下から覗き込む形で凝視すると低い声で、  「お前は誰だ」
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