第1章

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  ようやく部屋に帰ると、黒いものも白いものも近寄ってくることはありませんでした。しかし、まだ問題は次々とやってくるのです。左手が勝手に動いて、執拗に鉛筆やボールペンを取ろうとするのです。そのたびに、右手でおさえなければなりませんでした。書く物を取るのが無理だとわかると、今度は腕を振り回し始め、ものすごい力で右手を叩き潰そうとしてくる。あるときなどは、果物のそばにあった、小ぶりのナイフをとって攻撃してきました。  ある朝起きると、左手がペンを握り締めています。白かったはずの壁が、書きなぐられた線で埋め尽くされ、汚くなっていました。まるで形をなしていない線をよく見てみると、拙いながらもいくつかの文字らしきものがなんとか判別できます。わたしは字をひとつひとつ拾いあげ、「え」、「お」、「は」、「だ」、「ま」、「れ」の文字を発見しました。重複して書かれている文字もあります。「だまれ」というくみあわせが妥当なのでしょうか?はたまた、「はまだ」という人か、「おれは」という並びなのか・・・あるいはただ字を書いただけで特に意味はないのか。  わたしはだんだん寝るのが怖くなってきました。寝ている間に何が起きているのかわからない。なにものかがわたしの体に入り込み動かしているのかもしれない。そんなことを思いながらベッドの上で眠りに落ちないよう満月を眺めていました。満月は明るさを増し夜空の中で存在感を際立たせていきます。じっと見つめていると満月はじりじりと近づき、月の表面が鮮明に見えはじめました。月の地表は生物のように蠢き脈打ち目を開き血を流し舌を出し囁き誘い。空が青さを取り戻すまで。  やっと、眠ってしまったわたしは体を内側に丸めました。ようやく安息を得、静かな寝息をたてているうちにわたしはどこかはるかとおくへはこばれていくようでした。  覚醒した瞬間に見たのは鏡にうつる誰かの顔でした。二枚の鏡の境目が顔の真ん中を貫いているので左右のバランスがおかしくなっています。耳は離れ、口は左右に開き、左右の眼の間が大きくあいているのです。その同居人は自分勝手な人でした。わたしのいうことは黙殺され、いっさい耳を傾けてくれません。わたしは折り合いをつけながら日々を過ごすことになりました。
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