第1章

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 そうして何年も経つうちに耐え切れなくなったわたしは同居人と意志の疎通を試みることになったのです。しかし、書く物を持つことさへ許してくれませんでしたから、しかたなく暴力に訴えたりたりもしました。ある時、眠っている隙をついてわたしはペンをにぎることに成功しました。震える手で文字を書いてやりました。  わたしはからだの左側に誰か入っているのを感じます。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 完全に陽が落ちた室内はすっかり暗くなり、原稿を捲る頼子の細い手も、黒い文字の列といっしょに闇に溶けていった。  新造 三  集中してペンを走らせていると、寝食を忘れがちになって体重が減少していく。創造された世界に浸っていると現実を忘れ、妄想の中で生活せざるをえない。精神的にたいへんな疲労をもたらし、現実の自我から乖離していく。そうやって創作活動というものは体を削り取り、傷つけていく。  だが、それは仕方のないことなのだ。そうでもしないと空想の中で定着できない。交換条件みたいなものなのだろう。  幻覚を見て、離婚して、シュールになって、耳を削ぎ落として、自殺して、生き返って。そうして芸術は昇華していくことができるのだ。  わたしは手を休めることなく書き続けていたので、目の前には原稿用紙が積み重なり、庭も、畳も、床の間も、障子も、紙の束の影に隠れていった。そうやって周囲の光景が消えて創作の世界に没頭した私は、時に冗談を交え、動物に喋らせて、登場人物に恋愛させて物語を展開させていった。  「あなた、今日は田宮医院へ行く日だったでしょう」  妻が和室の上がりぶちのところに立って聞いてきた。膨れた腹が目立つ。眼窩が落ち窪み眼球まで膨らんでいるかのように突出していた。  膨れた腹が目立っているものの、瞳の奥から覗く眼光が鋭さを増しているせいか、逆に細くなっていくような印象を受けた。妻に付き添っていくのも悪くない。私はのろのろと立ち上がり、玄関に向かった。  外に出ると、靄が立ち込めているせいか視界が悪かった。朝靄かもしれない。どこからか鳥の鳴く声がする。通りなれたはずの道がいつも以上に歩きづらい、歩く先が見えないし足がもつれる。それでも私は妻の手を引いて童話のように優しく先導していった。
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