第1章

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と、問うてきた。私はこういう状況にあったら誰もがそうするように、黙っていた。正直なところでは、早く老婆がこの場から去ってくれるよう心の中で祈っていたのだが、期待も虚しくただ冷たい空気が体のまわりにまとわりついてくるだけで、老婆も私も硬直したままであった。  手探りの中、残されていた言葉を吐き出すことで事態の進展を願いつつ、「佐々倉新造です」と私は答えた。  老婆は先程までの堅い雰囲気をほぐすかのように顔に軽く笑みを浮かべるとこう問い直してきた。  「その佐々倉新造であるところの人間は誰であるかと問うておる」  この時、私の心中を表現するなら「無」であるとしか言いようが無い。  座禅などしたことはないのだが、おそらく無我の境地というのはまさにこの時の状態なのではないだろうか。  「意味がよくわかっておられないようじゃな」  そう言うと老婆は乳母車の後部についている隙間に手を差し入れると何か取り出した。手鏡であった。おもちゃなのだろうか、縁がピンク色で安っぽい感じがする。 それを下から私の顔に向けて掲げると老婆は呪文でも唱えるように連呼し始めた。  「お前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だ・・・・・」  私は鏡に映る妙にこわばった自分の顔を見下ろした。老婆はしばらく手鏡を掲げていたが、突然、勢いよく手を下ろすと今度は白い本のようなものを私の鼻先へ差し出してきた。背表紙に文字が入らないぐらい薄い小冊子のようなもので、表紙も真っ白で何も書かれていなかった。 私がそれを受け取ると老婆は甲高い耳障りな音を響かせながら乳母車を押してまた歩き始めた。  細い路地をただ遠ざかる老婆の背中をしばし見送った後、私は自宅のほうに向けて白い本を手にしたまま歩きだした。  もう空はだいぶ暗くなって、太陽も見えない。西の方、遠い空に光がわずかに残っているだけだった。  途中、左手の道の脇に竹が密集して生い茂っている放置された空き地がある。私は先ほど老婆から受け取った白い本を竹が生い茂る暗闇に向かって投げ入れると、ガサっという音を残して本は見えなくなった。  私は逃げるようにその場を立ち去ると、自宅玄関の引き戸をガラっと開けて、ピシャっと閉める。  「おかえりなさい」  妻の声がして、右手の台所から顔が覗くのが見えた。
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