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勢いよく閉めた音でびっくりさせたかもしれないと思いつつも、冷静を装って「うん」とだけ言って、私はそそくさと奥にある和室に入った。
背広やシャツを脱いでいると、庭に面した障子の側に見慣れないものが置いてあった。鏡が籐製の枠で囲まれていて四本足で立っている。いわゆる姿見だ。朝、家を出るときにはなかったはず、と思いながら近寄って自分の顔を見ているとふいに鏡の中の自分が笑った。はっとして手を自分の口元に持っていき、どかしてみると何事もなかったような真顔に戻っていた。
「夕飯食べますか」
いつの間にか、妻は和室の入り口にいて、こちらを窺っていた。
テーブルにはすでに二人分の食事が用意されていて、私はいつものように妻の横顔を右に見る形で椅子に座った。
妻も私もあまりしゃべる方ではない。だが、そのゆるやかな関係はお互い望んだもので心地よかった。
妻は若くそして美しい。単なる自惚れにすぎないかもしれないが、たいした存在でもない自分のようなものと一緒になるのが申し訳ないぐらいだった。
ふいに妻がにこやかに言った。
「今日、産婦人科に行ってきたの」
単純な私は家からそれほど離れていない田宮産婦人科医院のことを思い浮かべていた。歩いて十分程の住宅街の中ひっそりと佇むその医院はあまり人気がない印象があった。内科も兼ねているようだったが、私は一度もお世話になったことはない。
「妊娠してるって」
妻からの短い言葉だったが、私の鈍感な心にも響く言葉だった。
「ありがとう」
表現力に乏しい私は一切合財を全部まとめてそう言うのが精一杯であった。
あまり淡白すぎるのどうかと思い直し、私は続けた。
「そいうえばあの姿見はどうしたの」
「ごめんなさい、急に置いちゃって・・・実家から持ってきたの。捨てようとしてたから、うちに姿見は無いって言ったら、あげるって」
「いや。気にしなくていいんだよ。全身を見られる鏡があったほうが便利だから」
私は妻の横顔をちらりと窺った。
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