第1章

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 額から頭の後ろにむかって流れる髪。その髪の後ろに隠れている傷跡に気づいたのはごく最近のことで、それから何日も経っていない。よく見ないとわからないぐらい目立たない傷だった。おそらくかなり昔についたものだろう。あまり聞く気にはならなかった。本人からすすんで話してないということは隠しておきたいに違いない。それに髪に隠れているのだから何の問題にもならないし、傷ひとつぐらいで妻の美貌は損なわれるようなものでもなかった。  私はさりげなく話を戻した。  「あそこのお医者さんってどんな人なの?行ったことないんだけど・・・」  「思ったより若いお医者さんだったわ。父親が始めた診療所で息子さんが後を継いだんですって」  「へえ、じゃあけっこう長いこと続いてるんだろうなあ」  私はその医院が細い路地の先に佇む様を思い出していた。  灰色のブロック塀の奥にあるその建物はのっぺりとした飾り気のない見た目をしていて、敷地内にある大きな楡の木が枝葉を伸ばしているせいで表から見ると半分ぐらい隠れている。  隣家との境界はどうなっているのか葉に遮られて曖昧だ。ブロック塀にもたれかかるように佇む電柱。その傍らに見捨てられたように置かれている乳母車。 おかしい。なぜか記憶の中にそれはあった。いったい、いつ記憶の中に差し込まれたのだろう、家からそれほど離れていないから前を通り過ぎたときに見たりしたのだろうか。  一瞬、今日会った老婆のことを妻に話しかけようとしてやめた。あまり気持ちのいい話ではない。  「ごちそうさま」  私は食器を片付けて奥の和室へさがった。 文机に向かって原稿の続きを書き始める。目の前の縁側の向こうに申し訳程度にある庭は隣家との狭い隙間にあるせいで日当たりが悪く、常に湿度が高い。私は苔むして湿ったにおいを漂わせているその庭が好きだった。その沈降して地面近くに堆積していくような香りを嗅いでいると執筆作業が捗るのだ。  数時間は経過しただろうか、原稿を書くことに漸く飽き始めた私が体をひねると右手には昨日までそこには無かった姿見があって、胡坐をかいて座る自分の体が映し出されていた。
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