第1章

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 普段、私は鏡をあまり見るほうではない。たいしたこともない容姿を見る必要性がないからだ。そのせいか鏡に映る自分の姿を見る時に必ず違和感がある。自分はこんな顔をしていたのかとか、身長のわりには足が短いだとか頭の中のイメージと乖離していることに気づかされるのだ。それが嫌でますます鏡と距離を置きたくなっていく。  それ以降原稿の進捗状況は悪化していった。 部屋の中にいるもうひとりの視線を感じる。その視線は自分のものであるはずなのに。  いつの間にか夜は白んでいた。 田宮 一 田宮医師は机に向かっていた。  格子状の窓から差し込む光がカルテの上に規則的な模様を映し出している。  父の仕事を継いで二十年が経過しようとしている。その間の医師としての生活は何事も無く過ぎていった。  何か大きな問題を抱えることは望むところではなかったが、足りないものがあることも事実だった。平坦な道に感じる不安は延々と果てがないようで静かに迫ってくる。辿り着く先も見通せない。  診察室の扉をノックされる音がすると薄いガラスがビリビリと波打ち、部屋の空気が振動した。  「どうぞ」と田宮医師が答えると黒い塊のような巨体が診察室へ入ってきた。  脳神経外科の世界で活躍し、隠居生活に入っても多々良博士は精力的にみえた。  田宮のような普段から抑揚のない、波風を立てない性格の人間からすると博士のギラギラとした野心や活力はまぶしく感じる。  田宮の横に置かれた患者用の回転椅子に身をうずめると多々良博士は、腕を組みながら「実は手術検体が見つかってね」と短く言った。  気持ちは決まっているといわんばかりの沈黙が二人の間に流れた後、田宮は答えた。  「私はあなたのことを尊敬していますし、この診療所を建てるときに世話になったことも存じております。ただ、この手術の意義について聞いておきたいのです」  「意義か・・・」  多々良博士は田宮の頭の上にある空間を見つめながら話し始めた。
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