第1章

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診療所の玄関を出て鍵を閉めると、ひとかたまりになった風が楡の木にぶつかって枝をざわめかせた。湿った雲が流れる空を背にして田宮は中野駅の方に向かって歩き始める。 この辺りは都内でも特に人口密度が高い。戦後、東京へ流入する人々が増加し、『木賃』と呼ばれる民間家主が経営する賃貸共同住宅に住むようになった。宅地所有者は老後を見据えた生活設計として、盛んにアパート経営を営み、増加する人口を吸収していく。そうして狭い土地に人と建物が密集する区域が出来上がった。限られた広さしかない以上、東京という場所はますます密度が濃くなっていくのだろう。 田宮が幼い頃から歩きなれた道を歩んでいると意識は遠いところに運ばれ曖昧なものになっていく。そんな時、田宮の脳裏に必ず浮かび上がるのは、父から生前聞かされた話だった。 多々良博士がまだ現役だった頃、父はその助手を務めており、博士の手術を間近に見ることで学んだり、経験を積んでいったそうだ。 ある日、産後直後に放置されたと思われる赤子が発見者によって運び込まれた。頭部を損傷しており、早急に手術が必要な状態だったらしい。 緊急に行われた手術にもかかわらず博士の執刀は見事なものだったと父は語った。片脳を失ったが赤子は一命を取り留め無事だったらしい。 まだ幼かった田宮は病院特有の無機質な環境の中で育つとともにそういった人命に直結するような生々しい話を聞かされてきた。両極端な環境は田宮の世界観や人生観に少なからず影響を与えてきたし、それは病院内にいる他の人間にとっても同じだろうと田宮は想像していた。 あてのない思考を繰り返すうちに目指す住所が近づいてきた。田宮は商店街の途中にある雑居ビルの端にくっついている階段を登り、相談屋と書かれたドアの前で立ち止まると一呼吸置いた。 目指す住所には雑居ビルが建っていた。建物の端にくっついている階段を登り、相談屋と書かれたドアの前で田宮は立ち止まり、一呼吸置いた。  ドアをノックすると「どうぞ」という声がしたので中へ入る。主はイスに座って新聞を読んでいる最中だった。  「先ほど電話した田宮です」   「そこのイスにすわってください」  田宮が机の前に置かれたイスに座るとようやく相談屋は新聞を降ろした。  照明がついていないので薄暗い。窓から差し込む光だけが頼りだった。   「相談内容をどうぞ」
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