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靴を履き替えて、ついでに用を足し、手を洗っているときに鳥居さんが入ってきた。
「あ。ありがとうございました」
手はびしょびしょのままだが、とるもとりあえず頭を下げる。
「こちらこそ。
とても参考になりました。説明も分かりやすかったし。
悪天候の中、ありがとうございました。
まだ雨が酷いことだし、お気を付けて」
鳥居さんは丁寧に答えて軽く頭を下げ、個室に向かったが、ふと足を止めた。
「そうだ、中島さんにくれぐれもよろしく伝えてくださいね。
正直言うと、お宅のシステムを検討しようと思ったのは、中島さんがきっかけだから」
また少し、彼女は困惑の表情を浮かべた。
会議室で見せた、不安げな顔を思い出す。
やっぱり。
私はにっこり笑って「はい、必ず伝えます」と返し、一礼をして廊下へ戻った。
……差し出がましいことをしたかなと、少し気になってた。
でも、自分にも経験がある。
取引先の担当が変わる、通ってた歯科の担当医が変わる……
致し方ないとはいえ、やっぱり不安なものだ。
特に、初老の女性陣が多いこの施設では、要求を伝えるにもパソコン操作の質問をするにも要領を得ない人が大半を占める。
知りもしない人に尋ねるのはかなり勇気がいるだろう。
良かった、そう思いながら玄関ホールのガラス扉を開くと、目の前にすーっと営業車が止まった。
越智さんが目の前まで車を寄せてくれたのだ。
たった1メートルもない距離なのに、車に乗り込む僅かな間にジャケットは雨を含んで斑模様になる。
閉めたドアに遮断され、激しい雨音は窓の向こうでおとなしくなった。
「ありがとうございます。
それにしてもすごい雨ですね」
ハンカチで肩を拭いながら運転席に目を向けると、ジャケットを脱ぎ、髪の毛を湿らせた越智さんが目に入る。
水も滴る……
そんな言葉がふっと過った。
「あの。これ、良かったら」
バッグを漁って未使用のハンドタオルを差し出す。
越智さんはふっとこちらを向いて、柔らかく笑った。
「ありがと。助かる」
その顔から、さっき感じた不機嫌なオーラは消えていて、ほっとすると同時に上気していく感覚に襲われる。
神様は不公平だよね。
こんな整った顔、ある種、殺人兵器だよ。
ずっと見てたら動悸と息切れを起こしそうで、慌てて視線を外した。
……私の中にあった小さな違和感は、彼の笑顔にあっという間に塗り潰されてしまった。
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