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『しっかりしてて、媚びなくて、自分を持ってるところが好き』
彼がそう言ったから。
仕事にもプライベートにも手を抜かなかった。
本当はしっかりなんかしてなくて、甘えたい時も、ぼやっとしたい時もあったけれど、必死にこらえた。
手料理が好きだと言われたから、料理も頑張った。
恥ずかしがるところがいいって言われたから、自分から抱いてほしいなんて言えなかった。
そんな風に彼に尽くしてきたつもりだったけど。
『完璧すぎて、お前といると全然ほっとする時間無い。
抜けてるとこ見たかったし、甘えてきて欲しかった。
お前、もっと可愛いげのある女になった方がいいよ』
別れの言葉と一緒に突きつけられたのは、以前彼が言っていたことと正反対のこと。
馬鹿馬鹿しくて、空回りしてた自分が可哀想で、何より新しい女を作っておきながら、原因は全て私にあるような言い方をした彼が許せなくて。
一発グーで殴って叩き出した。
その日は、今日みたいに酷い雨の日曜日で。
それ以来、強い雨の日はじくじくと心が痛む。
いつまでも治らない怪我のように、心の一部が膿んでいる。
体裁を気にし、人の目を窺う私が殻を破れないまま逃げ込んだのが、恋愛小説だった。
隠す我儘も、弱い自分も、すれ違うもどかしさも、最終的には素敵な男性が全て受け止めてくれる、甘い甘い世界。
自分を重ねて、苦しくなったり辛くなったりしながら甘い気持ちに浸って、続かなかった恋の傷を癒す。
この甘い世界は私を裏切らない。
「お待たせ」
俯いた私の背後から、越智さんの声が降ってきた。
はっとして顔を上げると、彼は有名どころのコーヒーショップの紙コップを二つ、手に持っていた。
「飯はうまかったけど、コーヒーが残念だったから。
秦野さん、いつもうまいコーヒー淹れてくれるでしょ。
舌が肥えるよね」
言いながら私にカップを差し出す。
「ありがとうございます」
誉めてくれたこと、コーヒーを淹れているのを知ってくれていること、私の分まで買ってきてくれたこと。
全てが嬉しくて頬が緩む。
タバコと言いながら、隣に座った越智さんからはタバコの香りがしなくて、これを買いに行ってくれたのだと気付いた。
……好きになってしまってもいいかな。
彼なら私の殻を壊してくれるかな。
まだ「よく見られたい」という武装は解けないけれど。
もっとこの人を知って、もっと近付きたいと、強く思った。
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