融かされたい

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出てきたお蕎麦は本当に美味しくて。 ついつい顔が緩んでしまう。 出汁がしっかり効いたつゆも、冷えた体をほっこりと温める深い味で、じっくり堪能した。 蕎麦湯を啜りながら、「美味しかったぁ」と呟いたら、向かいからふっと息つく音。 ああ、またやっちゃった。 「満足してもらえたなら良かった」 噴き出しておきながら、涼しい顔で秋葉くんは蕎麦湯を啜る。 本当にいい奴なのか悪い奴なのか読めない。 「うん、お蕎麦は美味しかった。 ありがとう、いいお店教えてくれて」 ここは素直にお礼を言おう。 また来たいって思うお店が増えるのは嬉しいし。 「どういたしまして」 さらりと彼は答えた。 悔しいけど、気を遣わなくてすむのは楽だ。 秋葉くんの前なら平気で蕎麦もずるずる出来る。 ……同時にそれは、彼が対象外という証拠。 秋葉くんといてもドキドキしない。 口直しにほうじ茶を頂きながら、ちらりと秋葉くんを見た。 ばっちりと目があってしまい、少し気まずくなった私は湯呑みをグッと傾けてお茶を飲み干す。 空になったそれを私がテーブルに置いたのを確認して、秋葉くんは立ち上がった。 「じゃ、出ようか」 それと同時に「はい」とジャケットの入った紙袋を渡される。 つい受け取ったけど……これ秋葉くんのだし!! 意表をつかれてまごついた私を出し抜いて、彼はさっと会計を済ませてしまった。 慌てて彼のもとへ駆け寄る。 「ちょっと、今日は私が」 「誘ったの俺だから」 お釣りを財布にしまいながら彼はにこりと笑った。 「御馳走様でした」 厨房に向けて声を張り上げ、店の引き戸を開ける。 あ……。 何かが胸を過った。 何かは解らない、でも。 ……嫌な感じじゃない。 「御馳走様でした」 レジの女性に頭を下げて、私も店の外へ出た。 外は行き交う人の群れ。 風を切って歩く人たちが、空気の流れる方向を変えていく。 私と秋葉くんの間を通りすぎた人が、冷たい空気を残していった。 それは瞬時に皮膚を舐め、温まった体から温度を奪おうとする。 「ね。今日はお昼代、受け取ってよ」 背中に向かって声をかける。 「またお昼が被ったときにご馳走してよ。 いいお店、期待してる」 秋葉くんは振り返ってそう言うと、手を伸ばした。 「スーツ、ありがと」 私も紙袋を手渡そうと手を伸ばす。 紙袋の取っ手に伸ばされた指がまた触れる。 その指は、今度は暖かかった。
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