158人が本棚に入れています
本棚に追加女性が傷ついたような表情を浮かべたのが目に映る。
じっと見つめるが、やっぱり解らないものは解らない。
悲しげに揺れる瞳が潤み始めたのに気付いて、ぎょっとしてしまう。
兄貴が難しい顔をした。
「お前、頭強く打ったのか?」
「……ん~、むち打ちで脳は揺れてると思うけど、強打はしてないらしいよ」
「記憶吹っ飛んだのか?
あんなに意気投合して、ため口聞いてた癖に」
兄の疑わしげな視線は、俺と女性の間を往復する。
俺が?
この人と?
記憶のどこを探っても、名前はおろか、顔さえ思い浮かばない。
本気で初対面としか俺には思えなかった。
女性は潤んだ目を伏せ、自嘲気味に微笑んだ。
「ごめんなさい、外します」
そう言うなり病室を出ていった。
残された俺と兄は、声を潜めて彼女について話した。
「で、誰なの?兄貴の秘書?それとも彼女?」
「おいおい、いい加減にしろよ?」
「こっちが言いたいよ」
兄が目を丸くする。
「……本当に解んないのか?」
「怪我人いたぶって楽しいのかよ?」
苛立ちを隠せない。
そんな俺を見て、兄貴はやっと俺の訴えが冗談ではないと悟ったらしい。
大きな溜め息を一つ吐き出して、抑揚のない声を出した。
「琴子だよ、俺のかみさん」
……。
「はい?」
空気が白けるのが目に見えるようだ。
カミサン……つまり、奥さん。
「え?」
お互いが呆けた顔を見合わせた。
……ちょっと理解が出来ないんですけど。
いくら関係の薄い家族とはいえ、式を挙げたなら出席はしてるはず。
しかし俺は、兄貴が結婚していると言うことさえも今知った。
全く意味が解らない。
沈黙の落ちる病室に、飲み物を抱えた琴子サンが戻ってきた。
潤んだ瞳はもう乾いていて、どこかで気分転換をしてきたのだろうと窺えた。
琴子サンを見た。
じっと見た。
目が合う。
それでも解らず、俺は視線を反らした。
「ねえ、孝太郎くん。本当に解らないの?」
彼女の問い掛けに答えられない。
『傷付けてしまう』……そんな気持ちが胸のうちにあった。
「……はは。
……私、孝太郎くんに忘れられちゃってるんだね……」
揺れる栗色。
憂いを帯びた笑み。
切ない気持ちになるが、どうにもならない。
微妙な空気が病室に充満していた……。
……ここに来て俺は、案外記憶喪失ってのは自分の身に起こりうるものなんだと知った。

最初のコメントを投稿しよう!