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志帆さんはもの悲しくやや目を伏せると、湯から入浴剤の模造の花びらを両手で掬い上げた。 「あなたが思っているとおり、今が違う場所に移し替えてやる最後のチャンスでしょう。これを逃すとまた同じ繰り返し。それができるのは、私は今はあなたしかいないと思うわ」 「わ、私しか?」 「ええ」 自分の思っていたことを言い当てられたのもあるけど、何より私しかこの状況を打開できないと言われると否応にも狼狽してしまう。 私しかできないって言われても……。 お金も地位も大して持っていない、一般的な社会人の私が、蓮さんですら無理だった彼の父親に敵う術を持っているとは思えない。 「私は、どうすればいいんですか?」 「方法がはっきりと視えているわけではないんだけど、あなたのやりたいようにすればいいと思うわ。それで駄目ならまた二人で考えましょう。何もしないまま後悔することが何より不毛」 そう言って、彼女はゆらゆらと手のひらの中で揺蕩っていた花びらを湯に戻した。 落ちた花びらは乳白色の湯に溶け始めてすぐに沈んでいった。 残りの花びらも湯に溶けて混ざっていく。 そうやって、戻そうにも混ざり合って元の形に戻せなくなってしまう。 自分に力がないとか悩んでいる時間もない。 今すぐ行動を起こさないと手遅れになる。 まだこれと言って策があるわけではないけど、やるしかないよね。 志帆さんに促されて心の澱を吐き出したら、ずいぶん身も心も楽になった。 「ありがとうございます。何だかすっきりしました」 「ちょっとオカルトチックだったけど、大丈夫だった?」 「はい」 「よかった。魂とか言うと、大体変な宗教を勧めていると思われるの」 「あはは……」 確かに、最初は何を言い出したのかと思った。 志帆さんの能力を知らなければ、宗教関係の勧誘かと疑う気持ちもわかる。 「志帆さんは前世とかもわかるんですか?」 「わかるというより、未来と同じで不意に視えたりするの。視えない人もいるし、これも不定期なのよ」 常に視えるものではないらしい。 そっか、ちょっと自分の前世がどんなだったのか、知りたいような気もしたけど……。 ほんの少し芽生えた好奇心と落胆を志帆さんはすぐに感じとったようで、ニヤリと口角を上げた。 「唯ちゃんの魂はね、ファム・ファタールね」 「ふぁ、ふぁむ?」 「『傾城の美女』って言うのかしら?どうしても手に入れたくなるというか。昔も男たちがあなたを巡って争っていたみたい」 「あ、争うなんて!そ、そんなわけないです!」 「ふふ、昔は金と名誉と並んで、女が要因で戦をしていたのよ?今も昔も罪作りな女ね」 「絶対違います!」 全否定しても志帆さんはクスクス笑うだけ。 冗談だとわかっているけど、急に体温が上がってきた。 湯に浸かりすぎたのか、妙なことを言われて動揺したのか。多分両方だと思うけど、そろそろ上がらないと逆上せそうだ。 「私、そろそろ上がりま……」 言いながら湯船から身を上げかけた時、ふと風呂場の扉の曇りガラスに黒い影を見つける。 ルークだ。 リビングで寝そべっていたのに、いつの間にかここに来たらしい。 輪郭がはっきりわかるくらい顔をガラス戸に近づけて、中を覗こうとしている。 志帆さんも私の視線に気づいて、そちらへ振り返った。 「やだわ。自分だけ除け者にされたと思って拗ねてるみたい」 「男子禁制よ」と志帆さんが湯船の湯を扉に掛けると、「にゃ!?」と驚くルーク。 飛び退いて見えなくなった身体がまたすぐ近づいてきて、今度は「にーっ!」と前足で戸を叩く。 「ふふ、怒ってる」 志帆さんが悪い顔で笑う。 実はこの人、わりとSなのかも? タイプが違うから忘れそうになるけど、宗介くんのお姉さんだしな。 「にー!にー!」 『出てこーい!』と扉の向こうでぷんすか怒る小さな影に悪いと思いつつ、その可愛さに私もつい破顔してしまった。
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