ジェミニの恋

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けんちゃんの言葉が儚く車内に響く。 雨音に消されてしまいそうな声に私はどうしたらいいのかわからなくて、ただ息を潜めてけんちゃんの次の言葉を待つしかできない。 「あいつはさ、元々底抜けに明るい奴で、俺が冷たくしてもへこたれずに笑ってて。それが入院しても変わらなかった。病気に勝つって言って必死に薬の副作用とも戦ってた。つらい闘病生活でろくに外にも行けなくて、でも、親父のパンだけは唯一の楽しみだったみたいで、俺が持っていって渡すと嬉しそうだったのは覚えてる。最後はそれも食べられなくなって。でも、『持ってきて』って強請るから持っていくと嬉しそうに笑ってベットの上から眺めてた。俺はその時も何も言葉をかけてやれなくて。それから二日後に……逝っちまった」 けんちゃんはハンドルに腕を置いて半身を前に倒して、顔をそこに埋めた。 いつも大きなけんちゃんの背がすごく小さく見える。 「前は妹思いみたいな感じで話したけど、全然違う。俺は非力な兄貴で病床の妹に何もしてやれなかったんだ。妹への罪滅ぼしみたいな形でパン屋を継いだんだよ。だから、お前の見本になれるようなことは俺には何一つないんだ」 けんちゃんの心の傷。 きっと話してくれたのは私が本気で自分の店を出すことになって、前に話した内容じゃ駄目だって思ったんだ。 ただ綺麗話だけを聞かせた私が店を構えて一人立ちしようとしているのが気がかりなんだろう。 しんと静まり返った車内。 雨の音も時折横を通る車の音も、全てを呑み込んでしまいそうな沈黙の深さの中で、私はけんちゃんのほうへ向き直ると意を決して口を開いた。
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