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「頑張れよ」
私の頭の上からけんちゃんの言葉が降ってくる。
「……うん」
「つらくなったら、いつでも連絡してこい」
「うん」
優しい声。
今まで生きてきた中で、これほどまでに優しい声音を聞いたことがない。
思わず泣きそうになって、感情を落ち着かせるために大きく息を吸った。
空気とともにより深く感じるけんちゃんの香り。
パンの焼ける香りと、煙草の匂い。
相反する物の香りが混ざるそれは不思議と安心を覚えて。
やっぱり泣けてきてしまった。
少しだけ。
最後に少しだけ、いいよね?
私はだらんと垂らした自分の腕を上げて、ゆっくりと彼の背中へ回した。
その広い背中やがっちりした体躯とか匂いとか。
全部、全部、忘れないようにぎゅっとしがみついた。
雨を拭っていた車のワイパー。
雨音も聞こえなくなって。
完全に雪になって舞うのを横目に二人とも口を開くことなくただ抱き締め合った。
静かな夜に、少しだけ。
秘密の思い出を胸に私は自分の居場所を作る道へと旅立った。
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