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「わかった」
私はにっこりと笑顔を浮かべた。
「じゃあ、その女に産んでもらいなさい。私はもう妻をやめます」
元からもう夫婦関係は終わっていたのだ。
ただ、切っ掛けがなくてだらだらとここまできてしまっただけ。
私がソファから立ち上がると、慌てたように旦那が腕を掴んできた。
「は、春奈」
その手が私に触れた途端、虫唾が走って振り返りざまその顔面をぶん殴ってやった。
「触るな。ボケが」
もう我慢するのもやめた。
私は二階に駆け上がると、必要最低限の荷物を鞄に詰め込んで家を出た。
街灯が照らす道を一人で歩く。
夜も遅く、しかも真冬だからか誰ひとり擦れ違うこともない。
寒い冬の空気があの日を思い出させた。
これはあの時の罰なんだ。
大好きな彼を裏切って他の男と結婚した。
真っ直ぐに愛を向けてくれていた彼を傷つけて。
だから私は幸せにはなれなくて当然だったんだ。
もう一人で生きていこう。
誰にも迷惑をかけずに自分の力だけで生きていくと、とぼとぼと夜道を歩きながらそう決めた。
私の離婚はすぐに成立した。
向こうが事を荒立てるのを避けたのだ。
財産分与に加え、慰謝料もちゃんと払ってくれた。
これが夫から私への謝罪の仕方だったのだろう。
そのお金で私は店を出すことにした。
駅前の大通りの路地裏にある小さな店。
そこは前は蕎麦屋を御夫婦が経営していたのだけど、高齢になってきたから息子夫婦の元に身を寄せるため売りに出そうとしていた。
その話を知り合いから聞いて私が借り受けることになった。
それも友人の知り合いということで御夫婦の厚意で破格の賃貸料だったから助かった。
小料理屋として店を出せるほど、母に幼い頃から料理の腕は仕込まれていた。
それが唯一の武器になるなんて昔の私は想像していなかったけど、女が一人で生きていくと決めたからには使えるものは使わなければ。
三十前の出戻りで両親や雪弥の世話になるのは嫌だった。
こうして『さくら』という看板を掲げて、私は細々とだけど一人で生きていく道筋をつけた。
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