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何度もいう必要はなかった。
男の子は、ワコの声にびっくりしてすぐ手を離したから。
職員室も近かったので、声を聞きつけた職員さんがとんでくるのも早かった。
男の子はちょっと怒られていたようだった。
ワコは自分の声がとても大きかったことにびっくりして、べそをかき始めた。
「なにやっているの。こんなところにぼうっといるから……」
ワコの方に来てくれた職員さんはそんなようなことをワコに言っていた。
だがワコにはどうでもよかった。頭の中で聞こえた声の方が職員さんの言葉よりも大きく響いていたから。
「泣かないでよく言えたね。えらいよ、ワコ」
頭の中でしていたと思っていた声の主が、うっすら、職員さんの前に見えたような気がした。
ワコの母に似ていた。
「早く着替えないと、もうすぐ朝ご飯だよ」
職員さんはワコの着替えを手伝ってくれた。でもささっとやり終えると、忙しそうに別の部屋へ行ってしまった。さっき起きたことは、なかったことのように、誰からも何も言われなかった。
たくさんの布団がたたまれたあと、ワコの寝た部屋は、ただっ広い畳敷きの部屋に戻っていた。
「おかあさん」
ワコは小さく呼んでみた。
すると、耳元でささやきが聞こえた。
「ひだりての小指を見つめてごらん」
ワコは、声のするままに、自分の左手の小指を見つめてみた。
すると、指先がだんだんと、母の顔立ちに見えてきた。
小指の『小さな母』の顔は、ワコを見ると、言った。
「なんて顔をしているの」
ワコは、気がゆるんだのか、泣きそうな顔になった。そのとたん、『小さな母』は叫んだ。
「今は泣くな。もうすぐ朝ご飯なんだから。難しいかも知れないけれど、泣きたい気持ちは抑えるんだ」
ワコはもともと泣き虫だったから、そして気持ちを抑えることができないこどもだったから、その注文はとてもやっかいだった。
「ちょっと頑張って、ごはんを食べるんだ」
朝ご飯を、ワコは黙々と食べた。『小さな母』がそばでずっとしゃべっていたから。「ほんとに、ワコはよく頑張ったよ。」
「大きな声ではっきり言ったのが、とてもよかったよ」
「泣かなかったのもよかったし」
あまり何度も同じことを言うので、ちょっとうるさいなあ、と思いながら、ごはんを食べ続けた。
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