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その夜、土方は近藤の休息所で酒を飲み交わしていた。
「なあ、トシ。聞こえねえか」
ちびりちびりと舐めるように濁った酒を口に含む。
「何が」
あたしの耳に聞こえるのは虫の声だけ。
もちろん土方の耳だが。
美しい妾はまだ二十を少し過ぎた位か。土方と目を合わさぬよう、そっと酒の肴を載せた膳を横に置くと、隣の部屋に下がって行った。
今はその衣擦れの音が耳に残る。
冷酒を湯のみに注ぐと、近藤はぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。
『オイオイ、大丈夫か』
土方が心の中でつぶやく。
――何が聞こえるというのだろう。
「わしにはよお、幕府崩壊の音が聞こえるのさ」ぎらりとした目は、酒のせいか充血している。
土方が酒とともに唾を飲む。
近藤がこんなふうに、幕府について弱音とも取れる発言をしたことは無い。自分の不甲斐なさや幕臣個々の働きについて愚痴を漏らしても、彼はひたすらひたむきに幕府を信じてついて来たのだ。
勤王を掲げてはいるが、その心の奥は、徳川幕府への忠信が占めていた。
――これがこの男のの本音か?
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