序幕

2/3
46人が本棚に入れています
本棚に追加
/87ページ
 雨だった。土砂降りのスラム街の排水溝から水は溢れ、リシアの足首を飲み込んでいた。 「来い。聞こえなかったのか?」  セルシオの命令にリシアの足はすくむばかりだ。嫌だと言えば仲間が殺される。どうして、自分ばかりがと従わなければならないのかと幼いリシアは腕を掴んでくるセルシオを見上げた。  冷徹なまでに透き通るブルーの眼。雨音に負けない叩きつけるような声。十歳の娘に対する態度ではない。リシアは恐々とセルシオを見るばかりで、彼の手から逃げることを忘れていた。  スラム街に住む仲間達がセルシオの婚約者を殺した。婚約者らしき遺体はセルシオの後ろに雨に打たれる。濁流がさらに濁っていた。 「良いから来い! それとも、あの女のようになりたいか?」  雨足が強まる中で吐き捨てられた言葉は、人間味の無い響きだ。スラム街にもこんな人間は居ない。スラム街は確かに子供が暮らすにはきつい環境ではあった。それでもこんなに冷たい響きをリシアはかつて聞いたことがない。  リシアは従うしかなかった。仲間が殺される光景など見たくはない。子供心に怯えていた。セルシオの存在は小さな心が壊れるほど威圧的だった。 「返事はどうした? 嬉しいだろう? これからは貴様が僕の婚約者になるんだ。喜べ。笑え」  リシアは無力のままに引き摺られて言葉を疑う。
/87ページ

最初のコメントを投稿しよう!