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「お隣の席、よろしいですかね」
足元に巨大な鏡があるかのような光景だ。
耳を澄ませば自然の吐息が聞こえてきそうな緑色の景色は、クルーズのスクリューが揺らす水面の波長とシンクロし、実に幻想的な物語だった。
ゆらゆらと煙に巻くような、それでいてその形状の独尊とした力強さを見せつけるような。
マルクスの隣のチェアに腰かける老婆は、黒いドレスをぴったり着付け、淑女的な風格をこれでもかと匂わせている。
そんな老婆の服装と見比べるかのようにマルクスは目線を一番下へ下げるが、泣きだしたくなりそうな嫌悪感に襲われるだけだったのですぐに視線をクルーズの外へ向かう森へ向け直した。
夏なのにもかかわらず厚手のトレンチコート。色合いを統一させたハンチング帽。いずれもどこかほつれていて、色あせている。
「……今日はご旅行で?」
穏やかな声で質問を投げかける老人。
こんな小汚い自分を相手にしているとあなたも薄汚れていきますよ、と言い出したくなる気分だが口元で飲み込む。要は、構わないでほしいだけなのだ。
「ええ、まぁ」と曖昧に返事を返し、この場を取り繕うとするがマルクスの意に反し、老婆は言葉をやめない。
「時に、道とは何なのでしょうか」
「……。唐突ですね。私が、その答えを知っているとでも?」
「わかりません。ただ、どうして人という生き物は道を導(しるべ)にしたがるのでしょうか。このフェリーは道がなくても前へ進むし、鳥だって誰に指図されなくても飛んでいきます。世の中は点と点だけがあれば生きていけるのに、私たちはそれらを線で結びたがるのでしょうか」
「あなたは、その答えをこの旅行でみつけるといい」
遠くに聴こえる汽笛の音に気が付き、視線を川の奥へやると、クルーズの発着場が近づいてきているのが見えた。
このフェリーの旅も終わりが近いことを悟り、マルクスは足元のアタッシュケースを拾い、席を立った。
まだチェアーに座ったままの老婆の横をすれ違う際、ぼそりと口を開く。
「本当は知っているよ」
射止めるような視線を背後に感じながら、マルクスはその場を後にした。
マルクスの姿が見えなくなると、老婆は小さく笑い、誰に聞かれることもなく小さく漏らす。
「なるほど、さしずめあなたは右手を探してるわけね」
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