第1章

2/44
前へ
/45ページ
次へ
「智(とも)、今日バイトは?」 「やめた。」 2時限目が始める5分前。 次の講義がある教室へ向かう途中の廊下で、 ゆかりの質問に一瞬の間もあけることなく答えた。 「は?なんで? あんなに気に入ってたじゃん。 パートさんたちもいい人たちだって言ってたし。」 表情一つ変えずに答える私に驚いたらしく、 声量も声のトーンも上がるゆかり。 マンガみたいな驚き方してますよ、ゆかりさん。 「確かに、パートさんはいい人たちだったんだけどね。」 笑いをこらえながら答える私を見て、 ゆかりの眉間にしわが寄る。 自分が面白い顔してること、気づいてないんだろうな~。 「じゃあ、新しいバイト探すの?」 「そうだね。 親に仕送りなんてしてもらえないし、 貯金もそんなにないからなぁ。」 次の教室があと5メートルほど先に見えてきたとき、 私たちのすぐ前を歩いていた男が立ち止まり、 後ろを振り返る。 「じゃあ、あの、、、 もし良かったら、ウチで働きませんか?」 それはあまりに突然だった。 「・・・・・はい?」 「あ、正しくは、 俺が住んでる下宿先で、なんですけど。」 やっと絞り出した声に、 すべてが凝縮されていた。 私たちの話に聞き耳を立てていたなんて、 変態かこいつは。 いや、ゆかりがあれだけ大きい声を出していたから、 聞こえるのは無理もないか。 にしても、面識もない赤の他人に いきなり声をかけるなんて。 そうだよ、それ以前に、あなたは誰? 「やばい、時間ない。詳しい話はあとで。」 そう言って走り去っていく男の後ろ姿を、 ただ呆然と見つめていた。 私たちの教室の手前で、 A棟とB棟をつなぐ廊下を曲がっていったので、 私たちと同じ学年ではないらしい。 次の講義は、文学部2年生の必修科目だから。 「何あれ、知り合い?」 「いや、知らない。」 勢いに圧倒され、 何だか嵐が通り過ぎていったような感覚だった。 2人ともそこから動けないままでいると、 2時限目開始の知らせが鳴る。 「あー、いつもの場所空いてないかもしれない。」 聞き慣れた音で我に返ると、足早に教室へ向かった。
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加