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その視点はやがて、僕のものとなる。
首をつっているのは、僕だ。
苦しく、目の前が赤く染まり、意識がとぎれる。
覚醒し、名前を問われて、
テレビドラマと同じだと、思った。
僕はそれに「中平卓馬」と応えるほどの、
ゆとりがあったことに驚く。
茶番めいた清潔な白い壁と、
音のしないスライド式の扉。
中年の腹の出た医者と、
茶色の髪をひっつめた、肌が荒れた若い看護師。
見慣れた熊のような、槇さん。
ゆっくりと見渡す。
ここは、幼いころを過ごした庭ではない。
僕はずっと泣いていたような気がして、
頬を触ろうとしたが、点滴が腕につながれていて
動かせなかった。
不審な表情の医者に、
槇さんが「こいつは正常ですよ」と答えた。
「記憶喪失になった写真家の名前を
言えるくらいですから」
ほんとうに記憶をなくした写真家のようで
あれたらいいのに。
目が覚めたとき、
玲子さんの血をとめなければ、と
まず考えた。
病院の白い空間に、安堵した。
ここにいるのなら、彼女は生きている。
だが、横たわっているのは、僕だ。
「中平卓馬は、気づいたとき、
自分の名前も、わからなかったと思うぞ」
と、槇さんはあきれる。
中平卓馬は60年代から70年代に活躍した
カリスマ写真家だ。
彼は酔いつぶれて、昏睡し、
記憶障害を負った。
「というか、不遜ですよね」
その声は、藤井さんだった。
まったくだ。
伝説の写真家の名をかたるなど、
冗談にしてもたちが悪い。
「笑えるくらいだ。
先生、もう、こいつ帰ってもいいですよね」
「それは、無理です」
医者はやんわりと笑って、僕の腕をとる。
包帯を巻かれているのを見て、
自分の馬鹿さを知る。
手首を切って死ねる確率は少ないと
聞いたことがある。
玲子さんの手首には無数の傷があった。
死ぬつもりのない、ただ、痛めつけるための傷だ。
「森脇が来たら、礼を言えよ」
「え」
「あの人が見つけてくれなければ、
どうなっていたか、わからんぞ」
森脇さんが、救急車を呼んだのか。
彼は経理などの事務をすべてやっているが、
玲子さんの様子を見に、仕事以外でもしばしばやってくる。
もしかしたら、それも織り込み済みだったのだろうか。
意地の悪い思いがよぎったが、
玲子さんは本気で死ぬつもりだっただろう。
目が覚めて、ずっと聞くのが怖い、問い。
「玲子さんは」
そう口に出すのが精いっぱいだ。
槇さんは、僕を凝視した。
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