8人が本棚に入れています
本棚に追加
私は海を見つめながら呟いた。
「東京にね、独り母を残してきたんだ」
母とは約10年の間、疎遠になっていた。そんな私のところに電話があったのは去年の事。……病院からだった。
母は家の近所の歩道を歩いてる時に後方から来た車に轢かれたらしい。一命は取り留めたものの脳に大きなダメージを受けているとのことだった。
電気信号で伝えられる言葉の数々に現実感は無く、私はただ、テレビから流れる海外で起こったニュースを聞いているような気分だった事を覚えている。
電話を受けた翌日、私は病院に向かった。小さな病室で母は全身を包帯で巻かれ、何本ものチューブに繋がれていた。
母は脳の機能を停止させ、動かない体だけを残して眠っていた。何年ぶりかに見た母は、植物状態になっていた。
そんな母の姿を見ても私の目からは涙はこぼれてこなかった。
幼い頃に父を亡くし、兄弟もいない私は、勤めていた会社を辞め、目覚める事の無い母の世話をすることになった。
私は母が嫌いだった。憎しみさえ抱いていた。でも見捨てられなかった。母に対する気持ちを中途半端な位置にぶら下げたまま、看病する日々が続いた。
次第に、私の周りから色が消えていった。そしてある日、私は病院を飛び出した。
色の無い東京から、母から逃げるようにハワイまでやってきた……はずなのに、私の「心」は母のいる病室に置き去りになったままだった。
「‘A‘ohe pu‘u ki‘eki‘e ke ho‘a‘o ‘ia e pi‘l.」
私の耳に聞きなれない言葉が届き、意識がハワイの地へ戻された。
「今、何て言ったの?」
「登れない丘はない」
「登れない丘?」
「どんな困難も克服できるという意味。今抱えている問題は、あなたは必ず乗り越えられる。でも、まだあなたは立ち止まったまま」
なんだか彼女に全てを見透かされているようで恥ずかしくなった。
最初のコメントを投稿しよう!