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壁に掛けられた小さな数枚の紙の束、数字の並んだ其れは、何やら今日から赤い数字が並んでいる。
……なるほど。
外が賑やかなのはその所為か、と、私は一つ溜息を吐いた。
不意、に。
きぃ、と、店の扉が開く。
開店時間も、閉店時間も、有って無い様なものである此処では、いつ誰が来ようと関係は無いのだけれど。
男は後ろ手に扉を閉めて、私の正面、カウンターを挟んで向こう側に腰を下ろした。
……何にしましょう?
グラスを洗う手を止めて、私は首を傾いだ。
「……いつもの、……と、言ってみたかったんだよね。」
草臥れた背広に色褪せたネクタイを締めた男は、くす、と疲れたように笑いながら、私に返す。
……かしこまりました。
私は、後ろに整然と並べたロックグラスから一つを取り、掌で弄びながら、その上の棚から褐色の液体の入った瓶を取れば、カウンターに並べる。
氷を一つ砕くとグラスに沈め、その上からその液体を半分まで注ぎこんで彼の前へと差し出した。
……どうぞ。
ふ、と。鼻を鳴らして笑んだ彼はグラスを手に取ると一口啜り。
徐に、口を開いた。
「……面白い話を知っているだろうか?例えば、どんなモノでも探し出してみせると言う狐の話、であるとか。例えば、どんなモノでも盗み出すと言う猫の話、であるとか。」
……いえ、まったく。
私は首を横に振る。
「……まぁ、いい。……灰皿をもらえないだろうか?……あぁ、ありがとう。」
彼は上着の内ポケットから、紙巻きを取り出せば、カウンターの上のマッチで火を灯す。
一瞬の眩しさに眼を眩ませていると、彼は紫煙吐きだしながら、一息の後に、またゆっくりと紡ぎ始めた。
「……まったく、事実は小説より奇なり、と言うものでね。……いや、なに、つい此間の事です。……私の住んでいるマンションで起こった話が、また面白い話でして。……ちょっと、そんな話に付き合ってはくれないでしょうか?」
……いいですよ、幸か不幸か、今は貸し切りの様ですから。
「……それなら話は早い。」
男は、けら、と、可笑しそうに笑えば、ゆっくりと、物語を紡ぎだすのである。
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