クライアントNo.03 アネモネ

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 「花瓶の花代えてきますね。お義母さん、喉は乾いてませんか?」  葉月は、洗面所に向かった。いつも、そのついでに緑から飲み物を所望されるので、先に聞いてみたのだが、緑は首を弱弱しく横に振った。  葉月が廊下に歩いていく様子をくたびれた様子で見送っていた緑が冴木に独り言のように呟いた。  「ところで、婦長さん・・・。あの人は誰でしたっけ・・・?」  さすがの冴木もこれには驚いた。まさか、毎日のように世話をしてくれている娘の顔を忘れてしまうとは・・・。それとも、抗がん剤の副作用で一時的に記憶障害でも出ているのだろうか…? 「お義母さん、娘さんの葉月さんですよ・・・。は・づ・き・さん」  冴木は優しく緑に一音ずつ区切ってはっきり分かるように発音した。 「は・づ・き・・・? ああ、葉月か・・・。は・づ・き?」 「わかりますか?緑さん」  曖昧に考え込む緑に一抹の不安を覚えた冴木が、緑を励ますように念を押す。  「大丈夫だよ。わかったよ。葉月だろ、娘の・・・」  緑は、いつものような口調に戻り、それきりそのことは口にしなかった。  葉月は、戻ってくると、二人のやり取りなど知る由もなく黙々と緑の看病を続けた。面会時間が終わる五分前には緑の病室を後にした。    葉月は、うす暗くなった病院の入り口を出ると、脇にある喫煙所で荷物を降ろし、メンソールの煙草で一息ついた。病院という独特の雰囲気から解放され、汚れていても汚くてもずっとましな娑婆の空気。それを薄荷(はっか)を纏った煙とともに吸い込み、葉月は再び、憂いという名のジャケットを羽織り、街の景色へ融けていった。  何となく、仕事の気配がしてならない・・・。  葉月は、そう思いながら、駐車場へと歩いて行った。
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