天使の甘言

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「そういえば、まだ名前聞いてないけど、あんの? 名前?」 どこにいるかなんてわからないので、真正面を向いたまま訊ねる。 『カオルでいいよ』 彼女はおれの耳元で囁いた。 「カオル……なんでそんなことすんの?」 『君が私の存在を信じ始めたからだよ』 彼女の声はおれの周りを一周して、やがて笑い声に変わった。 「なんか、幻聴の癖に自由なやつだな」 『謙虚じゃないといけない?』 そんなわけはない。今、なんだか楽しい。 ずっといなかったのに、急に友達が出来たみたいで。 それも誰にも見えない、声が聞こえない不思議なヤツ。 こんな会話、他人からすると頭がお花畑とか思われそうだ。 ざっざっ。 クロックスをすりながら、たどり着いたコンビニ。 おれはマスクをポッケから取り出す。 『顔見知りがいるの?』 「んーまあ、気にしないで」 理由は人に見られるのが嫌だからだ。 顔を覚えられるのも嫌いだ。 それに目を合わせるのも。 マスクをしてると落ち着く。深い呼吸が出来る。 してなかったら、変に意識して呼吸をしてしまう。店内で深呼吸するヤツなんてそうそういないだろう。 店は人がいて、人と会わなければ、向かい合わなければならない。 それが苦手だ。 『コミュニケーション能力が著しく欠けており、日常生活に支障をきたしてるって感じだね』 「そのとおり」 おれは少年誌を軽く立ち読みした後に、ペットボトルのコーラと紙パックのミルクティーを買った。 「カオルは飲めない、か……」 『くれるつもりだったの? 気にしないでいいのに』 しかし、幻聴のために買ってやるとは。 仕方ない、明日ミルクティーを飲もう。 「川原へいこうか」 『今日は天気がいいから、月が綺麗だね』 「ほんとだ。月の光だな。街灯要らずだ。こんなに明るいとすぐに補導されるかも」 人の気配がない町は別世界のようで、いつもこんなだったらいいなと本気で思った。正直、太陽は嫌いだ。一日の始まりを感じてしまうからだ。 雨は好きだ。雨上がりのアスファルトの臭いも、道に点々とできる水溜りも、傘も好きだ。 傘は顔を隠してくれる。みんなからの視線を遮ってくれる。厄介な行事ごとも中止や延期になる。 明日、雨になってくれないかなあ。 梅雨時なのに、あまり雨が降らないので通学路のアジサイは確か萎びてしまっていたなあ。
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