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「高宮、今日こそ…どうよ?」
この声に振り返ってみれば、その主は同僚の絵路島であり、奴はやけに嫌らしい笑みを浮かべていた。
「…遠慮する。 何度も言うけど、お金が勿体無いだろ?」
この何度目か分からなくなる程の誘いに、俺は決まって苦笑しつつ、こうして首を横に振るだけだ。
絵路島もそこは毎度の事、大して期待をしていなかったのだろう…小さく「そうかぁ…」と零して肩を竦め、
「お前、良い加減立ち直ったらどうだ? …もう、二年も経ったんだぜ?」
しかし今回ばかりは、未だオフィス内で人目があるにも関わらず、やけに深いところへと奴の発言は踏み込んできた。
「…。 いや、もう立ち直っているよ。」
内心では、少しの苛立ちと大きな寂寥感が渦巻く…なんて、複雑なものがあるといえばあるのだが、これに対しても笑って誤魔化すのみである。
「まぁ、また誘うわ。」
「ああ。」
退勤時刻になるや、絵路島はそそくさと会社を後にする。
この社員総数が百にも満たない中小企業において、彼の様に残業を選ばない者はごく僅か。
そんな中にあっても俺以上に残業を熟す者はいない。
故に、俺がデスクに向き合っている内にも「課長、お疲れ様です。」「お先、失礼します。」などなど、様々な挨拶を残して退勤していく。
今俺に気を遣って残ろうなんて奴も、居ない。
それ程までに長く続くこの流れは、最早日常の一部に溶け込んでいた。
勿論、タイムカードは自主的に一人になった頃に押している為、残業手当どころか給料すら発生しない。
代表取締役…つまり社長にも早く帰る様にと言われちゃいるものの、そこは「家のPCが調子悪くて…」と頼み込んで残らせて貰ってる次第である。
そして気付けば、窓の外は夜の闇とネオンの光が同居する世界へと変貌を遂げていて、俺は漸く疲れを溜息に変えて吐き出すに至ったところだ。
勿論、こうして残業しているのにも理由はある。
あの家に帰る事も、あの家で過ごす時間も、俺にとっては苦痛でしかないからだ。
一人きりの、あの家に。
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