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同じ頃――
遠く離れた地で、夫に三行半を突きつけられた女がいた。
薄暗い部屋。数年前までは若い夫婦の明るい部屋であったのに。今は縁を切った夫が気まずそうに、妻だった女にありきたりの同情の言葉をかける。
「……すまないな」
「いえ」
情けの言葉をかけられた女は、身の回りの荷を小さくまとめ、三つ指をついていた。
「そなたなら……その美貌なら惚れる男もおるだろう」
子が、産めずともですか。
女は目を伏せ、その美しい顔には微笑みを浮かべていた。
「達者でな。そなたのことを忘れはせぬ」
思いやっている風の言葉が空々しい。
泣き叫びたい気持ちで心中穏やかではないはずなのに、微笑みが浮かんでいたことに自分でも驚いた。
今この場で泣きたくはなかった。
決して。
微笑みを浮かべたまま、女は凛とした声で静かに言った。
「恨んではおりませぬ」
そういう宿命だと思わなければ、どうして生きていけようか。
故郷へ戻ると、父親はあからさまに不機嫌な顔をした。
「……どのツラさげて帰って来やがった」
唸るような低い声でそれだけ言うと、背を向けて奥の部屋へと行ってしまった。荒々しく戸を閉めつける音が辺りに響き渡った。
白髪が増えた母親は、小さい体をより小さくして泣き伏していた。
「ごめんよ、ごめんよ……」
母さん、どうして貴女が泣くのですか。
「お前をそんな体に産んでしまった母さんがみんな悪いんだ」
そんな体なんて、どうか言わないで下さい。
「恨みなさい、母さんを恨みなさい。許さなくて良い、お前の恨み悲しみを全部母さんにぶつけなさい」
ありがとう母さん。
ごめんなさい父さん。
母さんを恨んではいません。どうしようもないこともあるのですから。母さんを恨んでも、誰を、何を恨んでも、どうにもならないこともあるのですから。
でも、ここから逃げることだけは、どうか許して下さい。逃げたところでどうにもならないのはわかっていますが、気持ちが折れてしまいそうで、どうしたら良いのかわからないのです。
女は荷解きをすることなく、故郷から離れた。
――ここはどのあたりだろうか。
とても遠くへ来た気もする。
雪に足を取られ、同じところを巡っているようにも思える。
吹雪が晴れて周りの景色が見えたとしても、きっとどこなのかわからないだろう。一面、真っ白に覆いつくされているのだから。
「このまま命が果てても良いのに」
そう願っても、こうして私は歩み続けている。
命を手放す勇気がないのか、天が私を生かしておくのか。
女はあてもなく雪の大地を歩み続けた。
どこか遠くへ。
故郷からなるべく遠く離れた地をめざして。
「あ……っ」
歩み続ける先に、雪に見え隠れする赤い染みが見えた。
血痕である。
吹雪でかき消されそうになりながらも、確かにそこには血の跡が続いていた。
急いで辿っていくと、それは洞穴へと続いていた。洞穴は深く、奥へ進んで行くと真っ白な着物の少女が倒れていた。
「これ、どうしたのです」
脇腹からは血が滲んでいる。
傷が深い。
頬にも血の跡があったが、そこに傷はなさそうだった。
「私に構うな」
「何を言っているのです。怪我をしているではありませんか。他に誰かいないのですか? 親や兄弟は?」
「そんなものはいない」
突き放すように少女が答える。
「私、独りだ」
出血で顔が青ざめていた。
「では」
女は微笑んだ。
「私と同じですね」
*
少女と女の出会いから八ヶ月ほど経った秋。
仕事を終えた村の男が、山から下りてきた。
ふと視界の隅に入った茶色の塊に気が付き、足を止める。伸び放題の草木を掻き分けそれに近寄った。
「なんじゃこの高さは」
茶色の塊は、カマキリの卵鞘。
小枝に付いている柔らかそうなその卵鞘は、男の背丈よりもはるかに高い位置にあった。
「……今年の冬はとんでもないことになる」
男の眉間に深いしわが寄った。
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