A Pacifist

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「何かしら?こんな晩に」  出会い頭、若干の不機嫌さを取り繕って、彼女は兵士達に言う。戦前で言う警察官のような役職に当たる彼等だが、彼女も割と遠慮がない。 「これは失礼しました。……実はこの近辺で、不審者を見かけたとのことでして」  対して兵士は軽く一礼し、重々しい声で用件を告げる。二人の鋭い目が婦人に突き刺さるが、彼女にも動揺はない。 「黒いカーヴァーを着た、短髪の女性で、右腕と右の頬に怪我をしています。心当たりはありませんか?」 「いいえ。それより、子供が寝ているんだから、あまり大きな音は立てないで頂戴」 「それは大変失礼。では、もし目撃情報がありましたら」  婦人が相当に不機嫌な口調を作った所為なのか、あっさりと二人の兵士は引き下がった。訪ねてきた時と同様に、戸を不躾に閉め、再び叩く音が小さく響く。また隣の家に聞き込みを行っているらしい。  それを確認すると、彼女は慌てたように階段を上って行った。兵士達には強気に振る舞ったが、内心は緊張で震えていたのだ。二階まで駆け上がり、扉を急いで開けて“不審者”に警告しようとした。  しかしその部屋には、もう孤独しかなかった。テーブルの上には口の付けられていないグラスが二つと、小さな紙切れが置いてあった。  閉じていた筈の、部屋の奥の窓は開けられており、入り込む夜風がカーテンを虚しく揺らしている。静寂の中で事態を把握し、彼女は息を切らしながら硬直する。客人の姿は、もうどこにもなかったのだ。 「……早すぎるわよ……」  息を整えるように彼女は深呼吸し、その後に、ひどく寂しげにそう呟いた。駆け上がってきた時の力はいずこか、力無くテーブルまで歩み、先程までは無かった紙切れを恨めしげに見つめる。そこには殴り書きのような字でただ一言「ありがとう」と書かれていた。 「訳ありとは思っていたけれど……全くもう……」  婦人は小さく首を振りながら、開け放たれた窓に目をやった。今顔を出した所で、彼女を探す事など出来ないだろう。皺の入った顔に一段とやつれがかかり、改めて溜め息を深く吐いた。 「……気を付けなさいよ……」  それでも、今日一日の事を振り返ると、彼女は幸せだった。平坦な日々に久し振りに訪れた転機に、心が多少なりとも沸き立ちを覚えていたのは事実だ。  孫を助けた時と同様、飛び出して行った客人に向けて、彼女はさよならの挨拶を告げた……。
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