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畜生、畜生、畜生。
男は必死の形相を浮かべ、そのような言葉を連呼しながら、炎の中を走っていた。周りからは燃え盛る炎の音に、崩れ落ちる壁、柱、そして天井の落下音が響き渡っている。
彼の顔付きはまだ若さを湛えていたが、その腕の中には、厳重にくるまれた赤子の姿があった。彼の実子であり、周りの轟音に負けない程の泣き声を先程から上げ続けている。彼にとっては、それがまだ幸いだった。己の全てとも呼べるその宝が、まだ懸命に生きようとしていることを、如実に伝えてくれるからだ。
「隊長!こっちです!早く!」
なお後ろから爆発のような音が襲い掛かる中、彼は視界内に一人の男を見た。男は大きく腕を振って、建物の出口から姿を覗かせている。それが己の腹心の部下だったことに、僅かながらの安堵を抱き、彼は両脚に残る力を注ぎ込んだ。耐火布を全身に被っていながらも、体は既に焼けてしまいそうに熱い。その出口に向かって跳躍するかの如く、炎が回っていた床を彼は駆け抜けた。
その直後に、一段と大きな爆発音が轟き、彼が先程まで居た場所に大量の火が飛びかかっていた。その直前に扉を閉めることに成功した彼と部下は、息を切らしながらも、ひとまずの窮地を脱した事に肩をなで下ろす。目を上げれば、生まれてこの方より見上げてきた空があった。天を埋め尽くす茜色の空と雲、それは黄昏の光景として無上の美しさを湛えていた。それが仮に、燃え盛る地上の炎を、とめどなく噴き上がる黒煙が照り返していなければの話だったが。
「……外には、出られました……私と隊長だけですが……」
部下の男は、その絶望的な光景を惚けたように眺めながら、魂が抜けたかのように力無くそう言った。隊長の彼も同じであり、疲れた耳と頭には、部下の声よりも己の鼓動の方が大きく聞こえていた。
その時ふと彼が顔を下ろすと、布の隙間から、赤子の艶やかな顔が覗かれた。煤が付いて黒くなってはいるが、張りのあって柔らかな肌だった。相変わらず泣きじゃくり、大声を上げるその子を、少し前までは好きなだけ抱くことが出来たのに。彼の心に、遅過ぎる後悔と過去への憧憬が沸き立ち、思わず彼の目からも一筋の涙が零れた。
「……それで、隊長……逃げる宛てというのは……?」
俯くように赤子と向き合い、硬直していた彼へと部下は尋ねる。彼はその呼び掛けに、一瞬は応じなかった。
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