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まだ周りには炎が溢れている。そのような状況下にあって、そこだけは時が止まっていたかのようだった。ここで部下が痺れを切らさなかったのは、その両者の間の絆ゆえか、或いは彼もまた正常な感覚を逸していたからか。いずれにせよ、親子の間に流れるその時間を邪魔する事など、恐らく誰にも出来なかった。
暫し、その様をぼんやりと眺めていた部下だったが、急に自分の近くに熱い物が飛んできた事に気付いた。背にしていた建物の火が、外にまで回ってきたのだ。その熱さに彼は事態の緊急性を思い起こされ、思わず飛び退くように立ち上がった。
「……隊長!?」
そしてその間もまだ、親子は互いに見合ったまま微動だにせず、部下は驚愕の声を上げた。さてはもう死んでしまったのかと、慌てて彼の身体を揺らし、漸くその無事を確認する。そして隊長は、ゆっくりと半身を伸ばし、赤子を抱いたままポケットを探った。
部下が何事かと眺めているうち、隊長は一枚のハンカチーフを取り出していた。炎に覆われる周囲の中で、それは雪のように白く、そして隅には紫色のチューリップの刺繍がなされている。彼はそれを、泣き止まぬ赤子の服の中に忍ばせる。更にそれを奥へと押し込み、決して落ちることがないように布をきつく締め直した。
「それは、奥様の……!」
思わず、高い声が漏れた。忠実な部下の一人として、彼もその品についてはよく知っている。それ故、その行為が示す意味を、彼は瞬時に悟っていた。
そしてその直後、隊長は部下へと、過去最大の任務を授けた。その赤子を差し出し、ある方向を指差しながら耳打ちしたのだ。その囁き声は、どこかで倒壊する建築物の落下音に掻き消されていた。彼以外に判別出来る者は居らず、彼は目を丸くしながらも心中で覚悟を決めた。
「……承知しました……必ずや!」
そして、その子を託された部下は力強く宣言し別れの礼を交わした。彼は腕と脚に満身の力を込め、隊長が指差した方向に走り始めた。そちらにはまだ火は回っておらず、その姿は彼からよく見える。しかし数十秒と経たぬ内に、その身は隠され、やがて消えたように見えなくなってしまった。
遂に独りとなり、彼は背後で燃え盛る建物から逃げるように駆け抜けた。かつてそこは、自分達の家と呼ばれていた場所だった。だが、今の彼に未練は無い。そのまま火の手をかいくぐるように彼は走り抜け、開けた場所に出た。
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