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◆◆◆
たった一度だけ、退職する直前に課長のお宅に招かれた事がある。
その頃には彼は、私が放つ何かをすでに感じ取ってくれていたのだろう。
「今度の休み、予定はあるかな?」
なかったと言えば嘘になる。その日に向けて、水面下で動いていたから。
だが上司の誘いは断れないものだと、思い込んでいた。
「たまには家庭料理でも食べないか?」
課長の奥様が腕によりをかけ、用意してくれた品はどれも懐かしい味がした。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ、お口に合ったかしら?」
「はい。とても美味しかったです」
柔らかな笑み。
「あなた、食後のコーヒーは?」
「ああ。私が淹れよう」
ソファからさっと立ち上がり、キッチンへと消える背中に驚く。すると奥様は、ふふっと微笑む。
「我が家では主人がお茶係なんですよ」
そういえば職場でも、彼は自分で淹れていた気がする。その度に女子社員達が慌てていたっけ。
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