第百十六話、榎本城(栃木県栃木市大平町)

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第百十六話、榎本城(栃木県栃木市大平町)

このお城は栃木県栃木市大平町にある、小山高朝が築城したとされるお城でございます。 現地にありました大平町史跡榎本城跡と題された看板によりますと、永禄元年小山下野守高朝は小山城(祗園城)の出城としてこの大平町に榎本城を築き、次男の高綱を城主に据えたと書かれておりました。 しかし当時、既に城域は存在しており水代の古城とも呼ばれていたようですね。 どうやら小田原北條氏に対抗するために元々古い要害があったこの地に、小山氏が築城したものが現在榎本城跡として残っているようでございます。 結局は小山氏も北條氏に従うことになるのですが、永禄6年には上杉謙信によって小山(祗園)城とともにこの榎本城も攻略された事もあるようです。 この永禄6年という年は上杉謙信が10万の大軍を率いて小田原包囲戦をした年の2年後の事なのですが、上杉謙信は小田原を落とす事が出来なかった為に永禄4年には越後に帰っておりました。 そして謙信小田原退去の翌年である永禄5年に入りますと、前年に謙信に良いように領土を荒らされてしまった北條家が覇権を取り戻すため、まずは下総と武蔵の国境にあった葛西城を取り戻し、武蔵石戸城を攻め、古河城を落とました。 おそらくこの時、公方奉公衆であった小山氏は北條氏に臣従したと思われます。 古河城にいた公方足利藤氏を捕えた北條氏康は、その公方を伊豆に幽閉すると武田信玄の援軍を待って松山城に兵を向けました。 これに敵対していた太田三楽斎と上杉憲勝(扇谷上杉家の傍流で、断絶していた扇谷上杉家の家督を継ぐ事になった人物)が越後に援軍要請することになるのですが、翌年の永禄6年に謙信が軍勢を率いて松山城までやって参りました。 この途上、街道沿いにあった小山氏の居城である祗園城と共に榎本城も落とされたのではないかと思われます。 結果的に謙信は松山城救援に間に合わず、降伏してしまった上杉憲勝の子を斬り殺すと言う暴挙に出るのですが、これが遠因ともなり関東諸将の謙信離れが加速するようになりました。 さて、上杉謙信とも関わりがあり北條家と上杉家の二大勢力に翻弄される古河公方奉公衆筆頭格でもあった小山家の悲哀が籠るこのお城、主城である祗園城と共に見学されるのはいかがでしょうか。 ただ、現地は非常に見つけ辛い場所にありますので下調べをしっかりしてから出発することをお勧め致しますぞ。 image=485710206.jpg
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