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まぁまぁそんな話の真偽はどうあれこの逸話は秀吉の小田原攻めのとき、石田三成、大谷刑部、長束正家らに攻められたときにも出て来ます。
関八州古戦録を見てみましょう。
そこには城主であった北條氏規が兄氏政の命で伊豆韮山に籠城したあと、城代として南条因幡守が残りました。
城には六十人が残っていたと記載がありますが、武将が六十人て事でしょう、おそらく家人を合わせれば二百人程度は居たのではないでしょうか。
しかし、攻める方は一万九千四百余騎。
城の命綱とも言える外堀である沼にも橋をかけてしまったので普通ならば勝負になりません。
ところが(話を端折ります)ある夜、城中から普請中の音に似た物音が聞こえて来ました。
寄せ手が「はて?」とは思うものの、翌朝人数の違いから問答無用で沼に掛けた橋を渡って攻め寄せました。
ところが、しっかりと造った筈の橋が底無しの沼にハマるようにぶくぶくと沈んで行くではありませんか。
寄せ手はびっくり。
たまたま山中城落城時に城から落ちて玉縄城に戻っていた北條氏勝が豊臣方に寝返っていた事もあり、急いで呼び出して「こんな凝った仕掛け、誰が普請をしたと思う?」と聞かれたそうです。
「いや、城中にはそれほど人が残っているはずはないから、おそらくは赤井但馬に地形を教えたとされる狐のなせる業だろう」
と言ったとか。
こんなお話がのこる館林城でした。
戦国初期から上杉氏、北條氏、武田氏が入り乱れ、結局は北條氏の元に納まっていた館林城。
古河公方のお膝元である古河城にも近く、古河鴻巣御所の桃祭の後に館林城のつつじを見に行くのも、なかなか乙なものかもしれませんぞ。
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