第百二十一話、古河城(茨城県古河市)

1/1
前へ
/34ページ
次へ

第百二十一話、古河城(茨城県古河市)

 平安時代末期、下総・武蔵・下野の境目辺りに下河辺の荘が成立した頃のお話し。  下野と下総の境目辺りには当時大勢力となっていた藤原秀郷流小山氏と呼ばれた一族が威勢を誇っておりました。その小山氏の庶子が源頼政に頼りこの地の荘司になったのが下河辺氏の始まりだそうでございます。  この時の人物が下河辺行義だったと言われており、下河辺の荘初の荘司になったとか。またその子である行平が今の古河城跡付近に初めて館を建築したと言われております。  時代はやや下り、鎌倉幕府も三代目が滅ぶとその権力を執権北條氏一族に奪われてしまい、その頃に下河辺氏は北條氏の家人となって下河辺の荘を去りました。  その後の事は余り良く分からず、次に文献に出て来るのは室町時代に入ってからのようでございます。  当時は室町幕府の関東出張所とも言える鎌倉府の三代目公方、足利満兼の頃。  小山の義政とその子若犬丸が乱を起こしました。結構盛大に暴れまわったようなのですが、結局は鎮圧されて大多数の所領を没収。同時に下河辺の荘も没収されて鎌倉府の御領所に編入されました。  このときから下河辺の荘と鎌倉公方の繋がりができて、四代目足利持氏、その子春王丸・安王丸、五代目足利成氏へと続く戦乱の中心地へとなって行くのであります。  で、本格的に古河城が日本の歴史の表舞台へと出て来たのが五代目鎌倉公方であり初代古河公方足利成氏の時。  まだ成氏が鎌倉に居た頃は家臣の野田氏が古河城に入っていたらしいのですが、享徳の乱で成氏が鎌倉を追いだされるとその居所を譲り、かわりに成氏が古河の主人となりました。  始めは直ぐ近くの鴻巣と言うところに御所を建てて入ったのですが、二年後にはこちらの古河城を取り立てて本拠としております。  ここから戦国時代へと突入し、古河公方・扇谷山内上杉連合・小田原北條氏・越後上杉氏など様々な群雄が入り乱れた城でございますが、現在は渡良瀬川の堤防に埋まってしまい墓標のような杭が残るのみとなってしまいました。  現地は頗る寂しい状態ですが、在りし日の東日本の政治的中心地である古河城に思いを馳せてみるのは如何でございましょう。 image=496769555.jpg
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!

48人が本棚に入れています
本棚に追加