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第百二十二話、平井城・平井金山城(群馬県藤岡市)
このお城は室町時代から戦国時代まで続いた、鎌倉公方(古河公方)足利氏と関東地方で泥沼の戦いを演じた関東管領上杉氏の居城でございます。
元々は永享の乱(永享10年・1438年)で、鎌倉公方4代目の足利持氏と関東管領上杉憲実の対立があったときに、憲実が分国であった上州に移った事がこの城の始まりだそうです(シリーズ中世関東武士の研究第5巻扇谷上杉氏・黒田基樹著より)。
永享の乱とは、上記のとおり鎌倉公方と上杉氏が対立した事による乱ですが、このときもう一つの上杉家、扇谷家は鎌倉公方に味方したそうですよ。
個人的な感想ですが、後年の両上杉家の対立である長享の乱(長享元年・1487年)の前哨戦のようなイメージがある対立ですなあ。
さて、現在は住宅地となっている平井城ですが、こちらの方は歩きやすい平地にあり、城跡近くにある案内を頼めば迷わず散策できそうですね。
道路から見える土塁(城門跡か?)付近に駐車場もありますので行きやすいですよ。しかもその駐車場に大きな歴史看板(謂れ書き)もあって親切設計。
上州平井は史跡保存に力を入れてますなぁ。
そしてその奥に歩を進めると、お墓のような石碑のようなものが鎮座し、近くの看板には「上杉謙信公奪還回復の城跡」との看板が立っています。
これは山内上杉氏最後の当主、上杉憲政が越後に落ち延びたあと、その名跡を継いだ長尾景虎がこの城を取り返したことを教えてくれているんですね。
で、その後景虎が上州の本拠地を厩橋(まやばし:前橋)に移した時、ここを壊して廃城にしたと言われています。
が、だ。謙信が平井城を廃城にした経緯ですが、まぁ一次資料ではないので歯切れが悪い事この上ないんですが、平井城を壊したのは北條幻庵だとも言われております。
謙信が平井城に攻め込んだ時の北條方の城代が北條幻庵で、攻め込まれた時、運悪く疫病が城内で流行っていたようで防戦する事もできなかった。仕方なく城を焼き溢して退去した。と書かれてる物もあるんですよ。(たしか、関八州古戦録だったか、相州兵乱記)
どっちが本当なんでしょうね。
そして金山城の方ですが、こちらは応仁元年あたりに築城された詰め城だったようです。
あぁ!金山城の文字数がない!
平井城も金山城も、どちらも綺麗に整備されて見物しやすい城跡でした。
古河と平井と河越、関東の三つ巴となった歴史ある一郭、お勧めです。
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