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第百二十三話、徳宿城(茨城県鉾田市徳宿)
ここは常陸大掾(だいじょう)氏から別れたとされる鹿島氏のそのまた分家の一族である徳宿氏の居城です。
あまり聞かない城跡だったので、現地に赴いたときも、はてどんな人物がいたお城だったんだろう?と思いながら城跡散策して参りました。
史跡自体はさほど広くは残っていないので、軽く散歩がてら行く事ができるところでした。
一応は側道に入って直ぐに、登城道の反対側に小さいながらも駐車場もあってそれなりに整備されておりますね。
入口には謂れ書きもありました。
その登城道を登ると、そこには誰を祀っているのか定かではありませんが神社が鎮座し、その裏の方に進むと崖になっている部分に土塁跡を見る事ができましたが、そのほか、境内になっている部分は一の曲輪なのでしょうが、城としての趣は殆ど感じることはできませんでした。
全体的には三の曲輪まであるようです。
その後簡単に調べてみますと、どうやらこの城が築かれた年代は平安時代末期辺りであり、滅んだ時期は室町後期の文明18年とされている様子。
戦国時代に入る前の城だったようですね。ただ、関東地方は文明時期には戦国期に入っておりましたから、やはり戦国時代の城なのかなぁ?
さて、城主達の略歴を一つ。
まず初代。
ここは平国香の血を引く徳宿親幹によって築城されたと言われております。またその孫の俊幹は、お隣の村である安房(あんぼう)を宛がわれたらしく、安房氏を名乗ったとの事です。
そして徳宿城のクライマックスは、文明18年(1486年)、徳宿道幹の時代。
この時、水戸地方を本拠としていた江戸氏の攻撃を受け、2000名に及ぶ城攻めの人数に対した徳宿氏、300名程の人数で城に籠りました。
大掾氏に援軍要請するのですが、衆寡敵せず。援軍到着前に危機を迎えてしまいました。
「今日の合戦は討ち死にと決したり。よって城外へ打って出る。心ある者は我に続け」
と叫ぶと、馬上の人となって壮絶な討ち死にをとげたそうでございます。
その後、多分江戸氏に接収されたのでしょうが、謂れ書きにはそこまででございました。
六甲地方の合戦の舞台となった徳宿城、一度訪れてみるのは如何でしょう。
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